「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
ヨハネ14:1
祈りが、なかなか答えられない時、問題が取り除かれない時、心の傷が癒されない時、
自分の思い通りに事が運ばない時・・・
「主は本当に居るのだろうか・・」「主は本当に存在するのだろうか」という事が頭を過ぎります。
そして、自分の祈りに答えてもらえない事に対して、怒りが出てくることもあります。
でも、よく考えたら、小さな子が「アレが欲しい」「コレが欲しい」と父親に願い、父親が時期尚早だと思えば、買い与えません。もっと必要性がでたら、その価値が分かる時に、もっと良いタイミングで与えたいと考えます。
幼い子どもは、「今」欲しいのです。生きてきた時間が短く、幼いが故、自分が成長した姿を創造さえも出来ないからです。
しかし親は、子どもよりもっと長く生きてきました。今の子どもには不必要で、上手く使用する事も出来ず、与える事によって、我が子が傷つく場合もあります。
父親は、子どもより長いスパンで物事を考えられるのです。
「今」でしか物事を判断出来ない子どもは、ねだっても与えられない事に腹を立て「それでも親なのか・・」「私には親がいないのかもしれない」と言えば・・どうですか?
私たちも、この幼児と同じ姿かもしれません。
全てが自分の思い通りになるのなら、信仰はいらないかもしれません。
人生でつまずくこともなく、死を恐れることもなのですから・・・
私たちにとって信仰とは、選び取る事だと思います。
自分の思い通りにいかなくて、全然理解できなくても、変わらず主を信じる。
今日も変わらず、主に感謝して生きる。 これは選択です。
自分の思い通りにならない時、主は見ておられると思います。
「それでも、あなたは私を信じますか?」と。
心が揺れてしまう時、私たちは自分の心が揺れすぎる前に、
主を信じると選択しましょう。主の手を握りましょう!
主が私たちを、無条件で愛されたように、私たちも主を無条件で信仰出来るようになりたいです。
今日も、主を選ぶ一日となりますように!