自分の尺度で主を測る【詩篇145:3】

2022年

主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。

詩篇145:3

私が教会に通い始め、イエスさまを信じる前(求道中)、教会での聖書の学びクラスにいました。

時折、牧師先生が「どうですか? イエスさまを信じませんか?」と聞かれました。

その時「神さまの事、もっと分かったら信じたい」と思っていました。

今思えば、「分かったら信じる」と言うのは、信じる事は不可能な考え方です。

神さまを、自分の頭で全て知る事は出来ないからです。

人間は、自分の尺度で神さまを計ろうとします。自分の尺度で万物をはかるのです。

自分が万物の尺度になるなんて無理な話なのです。

自分の尺度で計れるぐらいの神さまなら、自分の想定内のことしか出来ない神さまなのです。

私の様に「分かったら信じたい」と求道中の方から時々聞きます。

しかし、私たち、結婚相手さえ、100%相手を理解して結婚する事は出来ないのです。

結婚してから「こんな人だったんだ。こんな面があったんだ。」と気付くことが多いと思います。

また自分も、自身についても分かってない事も多いのです。小さい子が苦手だと思っていたのに、実際に自分の子が与えられたら、小さい子に対する思いが変わったりもするものです。

状況や経験などにより、自分自身にも新しい発見をしたりするのです。

神さまについて、「分かったら信じる」と言うのは絶対に無理なのです。

私たち、クリスチャンになっても、少しこの様な考え方を持ち続けてしまっています。

自分の尺度で神さまを測ろうとするのです。

私たちは長く信仰生活をすると、経験から「あーこれが御心だろうな」と勝手に決めてしまう事が多いです。「こういう御言葉ってあるしね」と、自分の知っている御言葉を思い出し、今ある状況に照らし合わせ、主に祈る前に自分で完結したりします。

また色んな理由を頭に思い浮かべ、十分に祈る前から「御心がこれであって欲しい」という思いが強く持っていると、自分も知らない間に、心の底で、勝手に主の御心を決めてしまうのです。

目の前にある問題が大きければ大きいほど、「これは早く解決しないと(早く解決してスッキリしたい)!」と思って、主の答えを待てず、自分から動くことが多いです。自分に出来る最大限、解決方法や可能性を模索し、自分が思う一番いい方法を探すのです。

自分の願い通りに事が運べば、御心が叶ったかのように喜び、自分の願い通りとは違う結果になれば、「どうしてだろう・・・祈ったのに」と、信仰に小さなつまずきになったりします。

私たちは、待つ事が苦手で、打ったら響くように、直ぐに答えが欲しいのです。

そして、自分の希望通りの御心がほしいのです。

私たちが、主を小さくしてるのかも・・・

私たちの想像を遥かに超えた偉大で全能なる主・・・

いつも私は、自分の尺度の中に主を置いて、自分の尺度で測れる範囲の、型にはまった御業を待っているのです。

私たちは「主よ。どうすればいいか教えて下さい。」「主よ。御心を教えて下さい。」と祈りながら、主の働きを邪魔しているのかもしれません・・・

今日は、主の偉大さを測り知ることができないお方であるという事を覚えて祈ります。

私が主の働きの邪魔をしないように・・・

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