主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
詩篇139:1-6
ダビデの賛歌です。
この御言葉を読む度に、不思議に思います。
ダビデは信仰者です。信仰者として代表的な人物です。(大きな罪を犯してしまいましたが)
旧約時代を見ると、ダビデ以降の王様が不信仰な罪を犯しても、主は、何度もダビデに免じて、王を許す場面があります。
ダビデは(私より)はるか沢山、主を体験しています。主の祝福を何度も何度も体験しています。
にも拘らず・・・今日の御言葉を読むと
「私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。」と書いているのです。
私たちの主は、人間の想像を遥かに超えたものを、お持ちであるという意味です。
ダビデは、日々新しい主を発見しているのです。
新しい主を発見するという事は、同時に「自分の無力さ」も感じているのです。
主は「あなたは私を探り、私を知っておられます。」 私たちの隅々まで知って居られるという事。
座るのも、立つのも。歩みも、伏すのも。 全ての行動においてその原因さえも把握されているのです。私たちが無意識でしている行動でさえ、本当は原因・理由があります。しかし、私たちは一つ一つ自分の行動の原因を確認しません。必要がないからです。 しかし主は、私たちの行動一つ一つの本当の原因、心の底までご存知だという事です。
どうですか?
主が私の全てを知って下さっていると聞いて、嬉しいですか? それとも嫌な感じがしますか?
嬉しいと感じるのは、自分で自分が分からない部分まで主は私を理解してくださっている。言葉が足らなく、また不完全であったとしても、主は理解してくださり、私の気持ちを汲み取って下さるという事に、喜びを感じるのです。
しかし、「私の全てを知っている」と聞いて、嫌な感じを受ける人もいます。どうしてでしょうか?
向かいから知り合いが歩いてきたとします。
喜んで声を掛ける人もいれば、何となく、鉢合わせないように避けたり、道を変える人もいます。
どうしてでしょうか?
喜んで声を掛ける人は、向かいから来る人と会えたことが嬉しいからです。
しかし、向かいから来る人が、あまり好きではない人だと、会いたくない。話したくない。と言う気持ちが作動するからです。会う事によって、心に不便さを感じるからです。
これと同じで、主が知って下さっていると喜ぶ人は、主が大好きなのです。
主が知っている事に不便を感じる人は、何となく、触れられたくない、話題にされたくない、後ろめたい部分を持っているのではないでしょうか?
反対に、私たちはどうでしょうか?
主について、どれ程知っていますか?
もちろん、私たちが主を理解できる部分は、ほんの僅かです。 主は偉大であり、私たちが計り知れる方ではないからです。
しかし、私たちは、クリスチャン生活が長さに比例して、主がどういったお方であるか知っていくべきです。
日々、聖書を読み、祈ることにより、今まで気付かなかった主を、発見できる信仰を持ちたいです。
主を知らない人に、「イエスキリストってこういう人だよ」と沢山話せるでしょうか?
主を発見するという事は、私たちにとって凄く大きな喜びとなります!
主を近くに感じれるようになるからです!
今日も、主を発見できる一日となりますように!