あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことができますか。
ルカ12:25-26
心配事はありますか? よく心配する方ですか?
心配なんてせずに、日々過ごしたいと願いながらも、心配事が尽きないのではないでしょうか?
シンシナティ大学のロバート・リーヒの著書『不安な心の癒し方』で、心配事の殆どは、取り越し苦労に過ぎないと書いています。
『アメリカでは37%の人が、毎日のように不安を感じている。
これらの心配性の人に対し、何が心配なのか、この先何が起こるのかについて、二週間記録してもらう。すると、心配ごとの85%において、実際には「良い事」が起こった。
さらには、悪い事が生じた残りの15%も、そのうち79%は、予想よりもよい結果につながった。
計算すると、なんと97%もの心配ごとが、とり越し苦労だったことになる。
それなのに心配性の人たちは、なにか事が起きたときにはネガティブなことばかり考え、マイナスの情報を集めてしまう。こうして、ますます不安に陥っていくのである。』
また、ある研究結果では、
私たちの心配事の40%は「絶対に起こりえない」ことを心配しているそうです。
心配事の30%は「どうする事も出来ない過去の出来事を思い煩っている」
12%じゃ「人からの評判」 10%は「健康」 8%だけが「実際に心配する価値があるもの」
こう見ると、私たちの日々悩ましい心配事の殆どは、
絶対に起こりえない心配事や、変える事が出来ない過去を悔んだり、自分でどうする事も出来ない、人からの評価、健康・・・
私たちの心配事の殆どが、自分の力ではどうする事も出来ない事柄に、心を奪われた状態になっているのです。
心配事は、私たちの体力も気力も奪います。どうにもならない事に力を注いでいる状態なのです。
心配とは、自分の性格の問題ではなく「信仰」に関係しています。
聖書では、「信仰の薄い人(マタイ14:38)」とイエスさまが言われています。
聖書は「心配しないように」という御言葉があります。
「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。(マタイ6:34)」
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4:6)」
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)」
「心配しなくていい」と言う御言葉は沢山あります。
主は、私たちの習性をよくご存じで、何度も聖書に書かれたのかと思います。
「心配する」とは「信仰が薄い」状態。
こんなにも沢山聖書に「心配しなくていいよ」と書かれているのにも関わらず、どうして心配は尽きないのでしょうか?
自分のものさしで物事を見て、判断するからです。
主は私達よりも遥かに有能であり、不可能がない方です。私達とはレベルが違うのです。
信仰とは、主を私たちのレベルに引き下げるのではなく、私たちが主のレベルを見上げるのです。
「私には不可能に思えるが、主には可能である」という信仰です。
自分の手に負えない事であっても、それは既に主の手の中にあるのです。
自分で解決しようと心奪われた時間を過ごすのではなく、心配事が生じたら賛美をして主を褒めたたえましょう!
主の御業を見るチャンスです!
今日も一日、主に委ねて、主の御手の中で過ごしましょう!
良き一日となりますように!