私たちの「心配」はどこから来るのか【ルカ12:25-26】

2022年

あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことができますか。

ルカ12:25-26

 

心配事はありますか? よく心配する方ですか?

心配なんてせずに、日々過ごしたいと願いながらも、心配事が尽きないのではないでしょうか?

 

シンシナティ大学のロバート・リーヒの著書『不安な心の癒し方』で、心配事の殆どは、取り越し苦労に過ぎないと書いています。

『アメリカでは37%の人が、毎日のように不安を感じている。

これらの心配性の人に対し、何が心配なのか、この先何が起こるのかについて、二週間記録してもらう。すると、心配ごとの85%において、実際には「良い事」が起こった。

さらには、悪い事が生じた残りの15%も、そのうち79%は、予想よりもよい結果につながった。

計算すると、なんと97%もの心配ごとが、とり越し苦労だったことになる。

それなのに心配性の人たちは、なにか事が起きたときにはネガティブなことばかり考え、マイナスの情報を集めてしまう。こうして、ますます不安に陥っていくのである。』

 

また、ある研究結果では、

私たちの心配事の40%は「絶対に起こりえない」ことを心配しているそうです。

心配事の30%は「どうする事も出来ない過去の出来事を思い煩っている」

12%じゃ「人からの評判」  10%は「健康」  8%だけが「実際に心配する価値があるもの」

こう見ると、私たちの日々悩ましい心配事の殆どは、

絶対に起こりえない心配事や、変える事が出来ない過去を悔んだり、自分でどうする事も出来ない、人からの評価、健康・・・

私たちの心配事の殆どが、自分の力ではどうする事も出来ない事柄に、心を奪われた状態になっているのです。

心配事は、私たちの体力も気力も奪います。どうにもならない事に力を注いでいる状態なのです。

心配とは、自分の性格の問題ではなく「信仰」に関係しています。

聖書では、「信仰の薄い人(マタイ14:38)」とイエスさまが言われています。

 

聖書は「心配しないように」という御言葉があります。

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。(マタイ6:34)」

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4:6)」

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)」

「心配しなくていい」と言う御言葉は沢山あります。

主は、私たちの習性をよくご存じで、何度も聖書に書かれたのかと思います。

 

「心配する」とは「信仰が薄い」状態。

こんなにも沢山聖書に「心配しなくていいよ」と書かれているのにも関わらず、どうして心配は尽きないのでしょうか?

自分のものさしで物事を見て、判断するからです。

主は私達よりも遥かに有能であり、不可能がない方です。私達とはレベルが違うのです。

信仰とは、主を私たちのレベルに引き下げるのではなく、私たちが主のレベルを見上げるのです。

「私には不可能に思えるが、主には可能である」という信仰です。

自分の手に負えない事であっても、それは既に主の手の中にあるのです。

自分で解決しようと心奪われた時間を過ごすのではなく、心配事が生じたら賛美をして主を褒めたたえましょう!

主の御業を見るチャンスです!

今日も一日、主に委ねて、主の御手の中で過ごしましょう!

良き一日となりますように!

タイトルとURLをコピーしました