もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。
ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。
私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。
Ⅰコリント10:30-33
家の中にあるもの・・・例えば、冷蔵庫、TV、電子レンジ、クーラー、車、、、
全ての物が私たち人間の為に存在します。それは私たち人間が作ったからです。
私たちは、主によって創造されました。被造物は創造主に属するものなのです。
主は、私たちの生きる目的を「神の栄光を現す」とされています。
神様の栄光を現すとは、どういう生き方なのでしょうか?
神の栄光を現すとは、
仕事で成果を上げてとか、たゆまぬ努力の結果、凄く大きな偉業をして・・・というものではなく、もっと基本的なこと、生きるための最低限のことを例にあげて「何をするにも」そうしなさいと言われていることに注目してください。
生きている私たちが誰もがすることであり、誰にでも出来ることなのです。何をするにも、神の愛と聖さを反映することができると言う意味です。
業績をたたえられるよりも、人としてのあり方を通して、神の栄光を現わすほうがずっと素晴らしいことなのではないかと思います。
私たちは、イエス・キリストとの出会いによって日々変えられていくのです。私たちは、主と出会って、私たちの考え方、生き方、人生観・世界観そのものを変革し続けるのです。
これは、修行や努力によって身につくものではなく、ただ主に信頼し忠実に仕える日々の生活によって変えられていくものです。
完全に、自分を主に明け渡したかどうかで、自分を吟味し続けることにエネルギーを使うのではなく、
不完全でも、罪深くても、今の私たちを差し出す生き方が肝心だと思います。
「使ってください」という姿勢でいることです。この姿勢を持ち続けると、
「今がその時だ」「今、神が求めておられる」という語られるのが分かってきます。
その時、実際に自分を使ってもらうのです。それが、神の為に生きると言うことです。
神に使ってもらいやすいように、自分を差し出す生き方を毎日選択するのです。
また「自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせるようにする」とあります。
「他人の益を求める」ことは、神の栄光につながります。
神の栄光とは、その聖さと愛が特徴です。私たちが、生活のどのような場面においても、まことの主なる神を証しすることができます。
私たちがイエス様に倣う時、相手の益を追い求め、相手を喜ばすことに全力を注ぐことが出来るようになるのではないでしょうか。イエス様は自分を捨ててへりくだって、この弱い私たちに仕えてくださいました。
主に倣ってへりくだり、自分の利益より他人の利益を心掛ける人が、たくさんいる教会は、喜びがあふれる教会となります。たとえ、相手が喜ばなくても、気がつかなくても、どんな時でも相手のプラスを図ってあげることが出来る、主のしもべになりたいです。
主に作られ、主に愛され、主によって救われ、主のものとされた者として、
今日も、主のためにも生きるのです!