喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。
箴言17:22
私は、困難の中に留まりながら
色々な事を考えます。
どうして困難は嫌なんだろうか…。
どうして避けて通りたいと思うんだろう…。
そんなことを考えたら、
困難に直面すると、気分が良くなくなる…
苦しみや悲しみ、孤独を感じるから。
どうして、孤独や悲しみを感じるんだろう…。
私が困難に対して、あまりにも弱い存在だから。
向かってくる困難に打ち勝つ力が、自分にはないのです。
だから、困難はとても嫌なものに思えてしまうんだと思います。
「どうしたら困難に立ち向かうことができるのだろう?」
と考えました。
困難がやってくると、私たちの中にある
「喜び」がすべて奪われてしまうんだと思います。
人は、喜びが失われると、耐えられなくなってしまう…。
きっと、人は「喜び」なしでは生きられないのだと思います。
そう思ったら、今日の御言葉を思い出したのです。
「喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。」
そう! 私たちから喜びがなくなると、打ちひしがれた状態になる💦
なんか、心がカラッカラッな状態になります。
生きていく力が奪われるのです。
特にクリスチャンではない場合、
困難に見舞われた時、祈ることも出来ず、
主に信頼をおく術を知らないのです。
だから! 人は時に罪を犯してでも
一時の「喜び」や「楽しみ」を追い求めてしまうのではないか?
心が渇くと、孤独に押しつぶされそうになります。
私たちは孤独には勝てないし、耐えられない…。
そんな考えを巡らせると、
人生が順調に進んでいるとき、
自分の心が、自然と寛大になる経験をしたことはありますよね?
でも反対に、心が「最悪だ」と感じている時には、
小さな出来事でさえ、自分をさらに追い詰められているように感じる事があります。
人は、心が潤っていないと、人生を歩き続けることができない…。
困難は、その心の潤いを奪っていくもの。
だから、私たちは本能的に困難を遠ざけたくなるんだと思います。
だったとしたら、
どうすれば困難に、心の喜びや満足を奪われずにいられるんだろう…?
と考えたら、
多分「常に心を満たしておく」しか方法はないのだと思います。
心が満たされていれば、
多少の困難がやってきても、心に余裕があるのです。
しかし、普段から喜びが少ない人が困難に見舞われたら、
大騒ぎになるのではないでしょうか?
同じような困難でも、打撃の大きい人もいれば
それほど打撃を感じてない人もいるはずです。
もともと自分の中にある喜びの器の大きさによるのではないか…?
しかし現実的に、大きな困難に直面した時に、
心を満たすことは本当に難しいし、不可能です。
困難に遭う前から、心を満たしておく。
そして困難に出遭った時、
問題を直視するのではなく、心に喜びを満たそうと努力するのです。
どの様に…?
私たちはクリスチャンです。
この世の喜びと、主からくる喜びは違うという事を知っています。
この世の喜びは、一時であり、移り変わりがあるものです。
私たちは、そのような喜びを求めるのではなく、
変わらない主の喜びを求めるのです。
人間が神との関係を失えば、深い意味での喜びも失う…
主はもう既に、この世に勝利されたのです。
私たちは、ここに希望を置くべき…。
普段から、主からの喜びに満たされておく。
そして、困難が襲ってきたら
もっともっと主からの喜びを求めるのです。
自分の心が奪われない為に…。
私は今、賛美を沢山聞いています。
賛美を沢山捧げています。
賛美で心を潤わせています。
私の心が困難に虫歯られ、カラッカラッにならない為に。
しかし、私も人間。
今、凄く不思議な感じです。
気を抜いたら、心が病む方向に真っ逆さまに
落ちていくんだろうなと感じています。
その反面、困難の中でも
「生きていく上で、喜びというのが大切」だという事、
また「主から与えられた喜びは、困難に立ち向かう力となる」という事を
知る事が出来ました。
私にとっては、とても大きな収穫。
「人間は本質的に神との交わりの中で、喜びを得て生きる存在」
喜びは人を内側から健やかにし、
反対に、喜びを失えば人は内側から滅びてしまう…。
今日も、主と共に歩み、私の内側を健やかに喜びで満たして貰おう‼
私は、今日も主を信じよう!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)