信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、
彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。へブル11:17-19
私は、今までに体験したことがない困難の中にいます。
色々な事を考えます。
その中で気を付けている事があります。
あまり思い悩まない事。
常に頭から問題が離れる事は無いのですが、
「どうしよう…」「どの様に対処すればいいんだろう…」
「これからどうなるんだろう…」と
考え込むと(もちろん考えますが…💦)
私の心は病気になってしまいます。
私は自分の心が崩れそうになっているのを感じています。
なぜなら、困難が自分で対処できない所まで来ているからです。
だから…主の介入しか方法がないのです。
主に委ねるしか方法がないのです。
沢山、悩みに悩めば、解決に繋がる訳ではない…。
反対に悩めば、私の心は絶対に崩れる。
だから、困難を注視しない。
主は、私にこの時間、何を考える事を望まれているんだろうか?
という事を注視する…。
そんな事を考えながら、アブラハムを思い出しました。
信仰の父アブラハム。
75歳の時に神から子を与えると約束されたのです。
イサクを与えれたのは100歳の時。
25年待ったのです。
そしてイサクが少年にまで成長した時、
主はイサクを捧げなさいと言われました。
…不条理…
「あなたの身から出る子が後継ぎとなる」(創15:4)と
約束されていたのに…
アブラハムは最大の試練に立たされたのです。
アブラハムの心情は記録されていません。
しかし「神の矛盾」とも思えるこの要求に
アブラハムは直ぐに従ったのです。
主からイサクを捧げるようにと言われ、
翌朝早く、アブラハムはイサクと共にモリヤの地へと旅だったのです。
アブラハムは愛するイサクと共に
3日間歩み続けたのです。
アブラハムはこの3日間、何を考えていたんだろう?
と思うと涙がでます。
それでも、アブラハムはイサクを捧げる準備をしたのです。
また、アブラハムは100歳を優に超えており、
少年だったイサクは、抵抗出来るはず。
しかし、イサクは縛られ祭壇に…
アブラハムは主に従順。イサクはアブラハムに従順。
結局、主はイサクを捧げることを止められ、
角をやぶにひっかけている一頭の雄羊…。
「アブラハムが目を上げると、雄羊がいた」と記録されています。(創22:13)
私はいつも、この御言葉を読む時、
主はいつから、この雄羊を準備されていたんだろう??
と思い巡らします。
アブラハムが見上げたときに突然出現したのではなく、
彼が気づく前から、
主はその場所に雄羊を備えておられたのです。
アブラハムが気づくずっと前に用意されていたのです。
いつだろう??
聖書には記録がないので分かりませんが。
私の勝手な想像ですが、
翌朝早くイサクを連れ旅立った瞬間じゃないかな…?
と思うのです。
完全に主に従うという選択をした瞬間。
イエスさまは山上の説教で
「あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全でありなさい。」と語られています。
私たちが「完全になる」という事を望まれているのです。
アブラハムは、不条理だと感じる語りかけに
主が語られた後、すぐ…翌朝早くから、
主に従順するという完全な姿を選択し、
そして最後まで完全であろうと、3日間の道のりを歩んだのです。
私の考えですが、
主は、翌朝早くアブラハムが家を出るという
「完全な姿」を選択した瞬間から…
主は雄羊を準備されていたんじゃないか?と思うのです。
これは私の想像なのでわかりません。
しかし、はっきりと分かる事は、
「主の備えは、必要なときに見える」という事。
しかし、実際には、そのずっと前から用意されているということ。
アブラハムは3日間、どのような思いで前進し続けたんだろう?
永遠に到着して欲しくない…
と考えが頭をよぎったんじゃないだろうか。
「神には人を死者の中からよみがえらせる事も出来る」と
思ったと記録にあるけれど、
しかし3日間の道のりは意気揚々とした
希望に満ちた道中ではなかったはず。
苦悩があったはず。
アブラハムは、苦悩に心を奪われず、主を選択したのです。
私も、主を選択しよう…‼
私に出来ること。
私がするべき事は、主を選択するという決断。
今日も、主を信じよう…!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)