天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
伝道者3:1
先日、スーパーでリンゴを買いました。
ツヤツヤと美味しそうな色合いに惹かれて、
「ちょうど食べごろだな」と思い、迷わずかごに入れました。
けれど、家に帰って食べてみると……うーん、イマイチ💦
まだ熟していないような、そんな味だったのです。
「えっ、こんなに赤いのに……」とガッカリしつつ、
残ったリンゴを冷蔵庫にしまいました。
1週間ほどして、何気なくもう一度食べてみると…
なんと、甘さが増していてとても美味しくなっていました。
でも、見た目はというと──購入時の方が断然よかったのです。
皮にハリがなくなっていて、
もしこの状態で店頭に並んでいたら、
たぶん私は買わなかったと思います。
美味しいリンゴを味わいながら、ふと気づきました。
私が「これが食べごろ」と思っていた見た目の判断は、
実際には本当の熟し具合とは違っていた。
このことって、信仰生活はもちろん、
人との関係や日常の中にもたくさんあるなぁと感じました。
例えば、高校3年生の次男。
いよいよ受験生。世間的には「今が勉強の時!」です。
でも、もしかしたら次男にとっては、
まだその時ではないのかもしれません。
私は「今こそ頑張る時」と思い込んで、小言を言ってしまう。
世の中の「時」に合わせて、
無意識にそれを要求している自分がいます。
でも、言われた側もまた同じように、
「今は勉強するべき…なのに、なんでやる気が出ないんだろう」
と、自分を責めているかもしれません…💦
信仰も同じです。
主には主の「時」がある。
けれど、私たちはそれを待てず、
自分で「この時にこうしてほしい」と決めてしまいます。
でも、主が沈黙されているのは、答えてくださらないのではなく、
「まだその時ではない」ということかもしれません。
なのに、私たちは「主がいないのでは?」とまで思ってしまうことがある。
でも…
本当の原因は、自分で「時」を決めてしまったからなのです。
主の時を、忍耐して待とう…!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)