私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。ヨブ42:5-6
私が一番好きなヨセフ。
信仰を持って間もないころ、ヨセフの人生を読んで、
あれ?と少し違和感を感じたことがありました。
ヨセフは父に愛され、不自由ない生活を送っていたのに、
奴隷となって異国の地へと連れていかれ、
奴隷生活を強いられたのです。
奴隷生活13年。豊作7年。
飢餓が始まり2年目に兄たちと再会したのです。
父のもとを離れ22年も外国で過ごしたのです。
ヨセフはどうしてこのような人生を歩むことになったのか?
ヨセフは自分で理解しています。
「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださった」
とヨセフは言っています。
…という事は、
ヨセフは主に遣わされて、奴隷となり苦労し、
寂しく孤独な時間を過ごしたのです。
違う表現で言えば、
主の計画を成就する為にヨセフは選ばれたのです。
私が感じた違和感はここにあります。
ヨセフは主によって苦労したのです。
苦労をし終えたヨセフに対して
主はヨセフに対して「労いの言葉」や
「(こんな人生を与えて)申し訳なかったね」というような
「謝罪」のような言葉はないのです。
またヨブもそうです。
主はヨブの事を「彼のように潔白で正しく、
神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」と言われています。
しかし、主はヨブを、サタンの手に任せたのです。
ヨブは全てを失うという人生を歩みました。
しかし、苦難の時間が過ぎ、
主は以前にもましてヨブを祝福したと記録されていますが
主はヨブに対して、その様な苦難の連続の人生を与えたことについて
「謝罪」のような言葉はありません。
ヨセフは人生のクライマックスの時に
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」
と兄に話しています。
ヨセフは奴隷として辛い時間を過ごした事以上に
「主に用いられた」という事に満足しているのが分かります。
ヨブも自分の人生を満足してるんだ!という直接的な記録はありませんが、
今日の御言葉にあるように
「主を知った事について満足」しています。
この2人だけでなく、聖書を見ると、
主が人間に「謝罪」している場面はないように思います。
…という事は、
主は「人に謝るような人生」を私たちには与えられていない!という事だと思います。
そう思うと…
私は、信仰を持ち始めた時、
信仰生活を送りながら時折考えていた事…
いつか、この地を離れ主に出会った時、
主に聞いてみたい事が沢山ありました。
「あの時、主は本当に私と共に居て下さったのか?」
「あの時、どのような思いで私をご覧になられていたのか?」
「どのような計画を持って私に苦難を与えられたのか?」
「理不尽な出来事をどうして、そのままにされたのか?」
などなど、
いつか主に出会った時…絶対に聞きたい‼と思っていた事。
その「絶対聞きたい‼」と思っている私の心に
「これは誰が見ても、可笑しい!」
「どうして私がこんな人生を歩まないといけないの?」
というような「満足」とは程遠い「不満」だったのです。
どうして「満足」がなく「不満」だけだったんだろう?
と思ったら
マタイの18章にある「無慈悲なしもべのたとえ」を思い出しました。
ある王は家来に1万タラントの返済を免除してもらう。
しかし、その家来は100デナリを貸した仲間を許さず
牢に入れたのです。
自分の貰った恵みがどれ程大きなものかを
理解し、感謝があれば、仲間を免除する事が出来たはず。
…私が「主にあったら絶対に聞きたい!!」と思っている
心の底には、
主に問い詰めたい! 絶対に可笑しいから。
私の人生にこんな事が起こるなんて…!
というような思いがあったのです。
主から罪を赦して貰った事を忘れ、
それよりも小さい事を、詰め寄りたいと思っていたのです。
自分の中に
「主に会ったら絶対に聞こう!」という思いがあるという事は
主の恵みの大きさを分かっていないという事。
主へ本当の感謝が出来ていなかったという事に
気が付いたのです💦
私はどこまでも自分中心であり、身勝手な信仰…。
主への感謝の思いが口から溢れる人生を歩みたい…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)