シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:31-32
今日は夜勤明けです。
仕事で病院に行く度に、色んな事を感じます。
2週間ほど前に、新しく入院されて来たAさんが居ます。
仕事に入ってすぐ看護師さんが
看「Aさんの体交変えるの手伝って下さい」と言われました。
私「Aさん? 新しい人ですか?」
看「あ!そうです。入ったら少し驚くかもしれないので、先にお伝えしますけど。
まだ若い男性なんですが、事故で脊髄損傷して首から下が麻痺してしまってるんです」
ご自分で動けない人は、2時間起き位に、身体の向きを変えてあげるのです。
床ずれ(褥瘡:じょくそう)が出来てしまうからです。
病室に入ってみると…30代後半の男性。
話しで聞いた通り、首から下が無感覚。
手の甲も反対に反っていますし、足も細く真っ直ぐ伸ばせない状態。
看護師さんとAさんの体交(身体の向き)を変えると
Aさんはこのタオルを肩にかけて欲しいとか、
左手はお腹に置いてほしいなど、細かくどうして欲しいのか伝えてくれました。
そして、ナースコールを押す事が出来ないので、
再度テーブルから口元にマイクの様なものを向け
息をかけるとナースコールが鳴るようにしました。
お部屋を出て、私が「本当にまだお若いですよね…」と
話すと、看護師さんが
21歳でバイクの事故にあって、今38歳。
自宅は病院と近いようで、お母さんが昼間に面会に来られ、
夕方は食事の時間にも来られて食事介助をして帰られてる。
と言うのです。
その時から、私はこのAさんがずっと頭に残っていました。
とても優しそうなお母さんの献身的な姿を見ながら…
3人家族のようで…
Aさん自身は勿論のこと、お父さんもお母さんも
どれ程多くの涙を流されたんだろう…
どれ程「何故」「どうして」と問い続ける時間を過ごされたんだろう…
Aさんも一人で寝れない悲しみの時間を過ごされただろうし、
泣き疲れて眠る事が多かったはず…
Aさんは泣いてもその涙さえ、自分では拭くことができない…
Aさんが21歳から今まで、食事もトイレもお風呂も…
全てにおいて両親の手助けがなければ出来ない…
恥ずかしさも感じているだろうし、
かと言っても反抗期のような態度もとれなかったのではないだろうか…
介助を受けるAさんも、ご両親に対して色々な思いを感じているだろうし、
ご両親も、常にこれからの事、
10年後20年後の事も心配されているだろうし…
そんな事を、ずっと考える時間となったのです。
そして、昨日夜勤で病院へ行き、夜中に看護師さんが
「え…これって、これしか方法はないのかな…」と驚き呟いていました。
どうしたのかを聞くと、
Aさんは、長年、歩く事もないので下半身が痩せ細っています。
そして足の褥瘡が酷く、骨が見えているそうです。
その足を切断する方向で担当医が考えているとの事。
褥瘡が酷い部分をかばって、身体の向きを変え続けると、
かばった部分が褥瘡が出来る状態だそうです。
このままでは褥瘡が出来ている足が腐ってしまう…
だから生きる選択をする為の切断。
「本人とご家族は知っているんですか?」と聞いたら
「多分、まだ医師たちの見解の段階だから、伝わってないと思う」との事。
私の心は、一層苦しくなったのです。
主よ。どうしてですか?
今でさえ耐えがたい状態だろうに…
Aさんが一生歩けないとしても、足が必要ないというわけではない。
足のない姿をご両親が、毎日目にする度に
ご両親の心はどうなるんだろう…
どうして主がこれ以上の試練を、
この家庭に与えられるんだろう…。
医師が丁寧に説明をしたとしても…
結局は「足を切断する」という内容です。
この話を、Aさんとご両親はどう受け取るんだろう…と思うと
悲しい感情に加え、怒りに近い感情まで生じたのです。
そんな悶々とした思いを持ちつつ、昨晩仕事をしていました。
そして夜中に、全ての患者さんの見回りをしていました。
4人部屋の部屋での見回りは、ベットの廻り方が決まっています。
しかし、私はその部屋に入って、その時の気持ちが沈んでいたからか、
勝手に足が3番目にチェックする方のベッドに入っていました。
そして、私は患者さんを見ないといけないのに、
サイドテーブルを眺めていました。
薄暗い部屋の中です。あまり何が置いてあるのかよく見えない状態。
テーブルの上に箱の様なものがありました。
「これって何だろう?」と気になったのです。
手に触れた時「え…これって聖書じゃない?」と思ったのです。
スマホのライトをつけ、触ってみると…聖書だったのです。
「わーーーこの方、クリスチャンなんだ!」と
一気に嬉しい感情が出ました。
そして自分が今、決まりに従った見回り行動をしていない事に気が付いたのです。
あれ? これは主がワザと、私に今、
聖書を目にするように導かれたんだな…と思いました。
あ…! 私の気分はAさんの事で、マックスなぐらい下がっていました。
聖書は何と言ってるんだろう?と思ったのです。
そう思った瞬間、ある場面を思い出したのです。
これから十字架にかかろうと兵士に連行されているイエスさまが
主を「知らない」と3度言ってしまったペテロを心配そうに眺めている姿。
イエスさまはご自分が兵士に捕らわれる前に、ペテロに
「私は、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言われました。
3度、主を否定したペテロの為に、
主が予め「あなたは私を知らないと言ってしまい、
自己嫌悪を起こすだろうけれど、
私はあなたの為に祈っている。あなたの信仰が無くならない為に」という主の思い。
そう思いだした時に…
あ…そうか…
今の私の状態は、人間的にAさんとその家族に
「同情」して「心配」しているのです。
「同情」や「心配」は、「祈り」ではない。
私はクリスチャンとして「同情」や「心配」より
「とりなしの祈り」を捧げるべき。
Aさんの家族が、これから起こる事(足の切断)を通して、
一層「神から遠ざかる」思いを起こすのではなく
「神に近付ける思い」となるように、とりなしの祈りを捧げる‼
事故に遭って身体が機能しなくても、
足があっても、なくなっても…
私たちの一番の幸せは「主と共に生きていくこと」
手や足がなくても、命に入る方が良い。という御言葉もある…
主に近づくことができるように、祈るべき。
自分の祈りの対象者が一番大切な幸せを手に入れる為に。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)