彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れと、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやり連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。ヨハネ6:13-15
5つのパンと2匹の魚の話です。
男性だけで5000人を超えていました。
そこに女性や子どもまでいたのです。
軽く1万は超えた人たちが集まっていたのです。
そこでイエスさまが御業を成されたのです。
僅かなものから人々が十分に食べ、パンは12カゴも余るほどの御業。
その御業を見る前から、
人々はイエスさまから福音を聞いていました。
そして癒しを目の当たりにしていました。
権威ある話し方。
自分の周りにはいないオーラを感じる方、
主の愛と知恵のある話に聞き入っていたと思います。
イエスさまの姿に、特別感を感じたハズです。
すると、お腹いっぱいになった人々はどうしたでしょうか。
イエスさまを自分たちの「王」にしようとしたのです。
人々がイエスさまを王とするために、「むりやり」連れて行こうとしたのです。
どうして「無理やり」な行動をとったのでしょうか?
イスラエルの民は、主の風格や人格、話される一つ一つの言葉の重み。
そして、人では癒す事が出来ない事がお出来になる…
そして、5つのパンと2匹の魚を体験したのです。
「この方しかいない‼」
「この方が私たちの王に相応しい‼」
と思ったのではないでしょうか。
その思いは「絶対に…この方だ!」という思いだったんだと思います。
私も、もしその場に居たとしたら、
イエスさまが、私たちの王となれば、
私たちはローマの支配下から独立でき、
1つの国として十分に成り立って行く事ができる!と思うと思います。
ローマからの解放…
このイエスさまが王なら出来る…!と。
民にとっては、本当に絶好のチャンスだと思ったのではないでしょうか。
しかし、続けて聖書を読むと、
イエスさまは、群集を解散させ、1人祈るために山のほうに向かわれたのです。
イエスさまはイスラエルの「王」にはならなかったのです。
しかし、疑問が1つ…
十字架にかかる前にピラトに「あなたはユダヤ人の王なのか」と質問されています。
そこでイエスさまは「そうだ」と答えられています。
これはどういう事でしょうか?
イエスさまは、単なるイスラエルの王として、
民をローマや色々な問題から解放させようとされたのではなく、
1人ひとりの人生、日々の生活…
1人ひとりの「心の王座に座られる王」として
存在しようとされたのです。
私たちは、少しでも解決の可能性を感じると…、
急いで解決をしようと思い、
これが解決する方法だ!思い、行動しようとします。
この時、民もイエスさまの姿を見て「この方こそ、我らの王だ」と
感じたのです。
この方を通して、日々の色々なことが解決すると…
しかし、主の方法は違うのです。
一国の王として、人々の解放に介入するのではなく、
1人ひとりの人生に介入される方法を選ばれたのです。
私たちは「これだ!」「これが解決方法だ!」と
思い込んでしまう傾向があるのです。
そして、自分がこれだ!と感じた思いが成されない場合…
失望するのです…
答えてもらえなかったと。
絶対に方法はこれだと思うのに…どうして?と
だって、誰が見てもこれが答えじゃない…?と
不信感だけが残るのです。
自分が思う方法と、主の方法は違う。
自分が考え付く方法と、主の考えは違う。
自分の解決方法というアンテナを捨て、
先走ってしまい、1人で落胆しないようにしたい…
主がどう思われているのか、に心を向けるものになりたいです…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)