私たちの陥りやすい勘違い【ヨハネ6:13-15】

2024年

彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れと、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやり連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。

ヨハネ6:13-15

5つのパンと2匹の魚の話です。

男性だけで5000人を超えていました。

そこに女性や子どもまでいたのです。

軽く1万は超えた人たちが集まっていたのです。

そこでイエスさまが御業を成されたのです。

僅かなものから人々が十分に食べ、パンは12カゴも余るほどの御業。

その御業を見る前から、

人々はイエスさまから福音を聞いていました。

そして癒しを目の当たりにしていました。

権威ある話し方。

自分の周りにはいないオーラを感じる方、

主の愛と知恵のある話に聞き入っていたと思います。

イエスさまの姿に、特別感を感じたハズです。

すると、お腹いっぱいになった人々はどうしたでしょうか。

イエスさまを自分たちの「王」にしようとしたのです。

人々がイエスさまを王とするために、「むりやり」連れて行こうとしたのです。

どうして「無理やり」な行動をとったのでしょうか?

イスラエルの民は、主の風格や人格、話される一つ一つの言葉の重み。

そして、人では癒す事が出来ない事がお出来になる…

そして、5つのパンと2匹の魚を体験したのです。

「この方しかいない‼」

「この方が私たちの王に相応しい‼」

と思ったのではないでしょうか。

その思いは「絶対に…この方だ!」という思いだったんだと思います。

私も、もしその場に居たとしたら、

イエスさまが、私たちの王となれば、

私たちはローマの支配下から独立でき、

1つの国として十分に成り立って行く事ができる!と思うと思います。

ローマからの解放…

このイエスさまが王なら出来る…!と。

民にとっては、本当に絶好のチャンスだと思ったのではないでしょうか。

しかし、続けて聖書を読むと、

イエスさまは、群集を解散させ、1人祈るために山のほうに向かわれたのです。

イエスさまはイスラエルの「王」にはならなかったのです。

しかし、疑問が1つ…

十字架にかかる前にピラトに「あなたはユダヤ人の王なのか」と質問されています。

そこでイエスさまは「そうだ」と答えられています。

これはどういう事でしょうか?

イエスさまは、単なるイスラエルの王として、

民をローマや色々な問題から解放させようとされたのではなく、

1人ひとりの人生、日々の生活…

1人ひとりの「心の王座に座られる王」として

存在しようとされたのです。

私たちは、少しでも解決の可能性を感じると…、

急いで解決をしようと思い、

これが解決する方法だ!思い、行動しようとします。

この時、民もイエスさまの姿を見て「この方こそ、我らの王だ」と

感じたのです。

この方を通して、日々の色々なことが解決すると…

しかし、主の方法は違うのです。

一国の王として、人々の解放に介入するのではなく、

1人ひとりの人生に介入される方法を選ばれたのです。

私たちは「これだ!」「これが解決方法だ!」と

思い込んでしまう傾向があるのです。

そして、自分がこれだ!と感じた思いが成されない場合…

失望するのです…

答えてもらえなかったと。

絶対に方法はこれだと思うのに…どうして?と

だって、誰が見てもこれが答えじゃない…?と

不信感だけが残るのです。

自分が思う方法と、主の方法は違う。

自分が考え付く方法と、主の考えは違う。

自分の解決方法というアンテナを捨て、

先走ってしまい、1人で落胆しないようにしたい…

主がどう思われているのか、に心を向けるものになりたいです…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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