信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
へブル11:6
主はどうして目に見えないんだろう…
この地球に姿があれば、もっと簡単に全世界の人が
迷わずに主を信じる事が出来るのに‼
でも、地上に存在したら、
主に反対する勢力が出てくるだろうし、
論争や戦争が起きるかもしれない…
だったら、太陽のように、私たちの手の届かない位置に
誰が見ても当たり前に「神」だと分かる状態で
主が存在して下されば…良いのではないか?
そうすれば、偶像礼拝や無心論者なども存在しないはず。
どうしてそうされず、姿をみせられないんだろう?
ということを前々から何度も考えていました。
そして先日、次男が学校から帰って来て
「プレゼン大会があって、学校の試験方式についてプレゼンしようと思う」というのです。
学校は、一年半前から中間期末テストがなくなりました。
小テスト、単元テストだけです。
テスト前にチラッと復習すればパス出来るのです。
そして万一点数が悪かった場合、再テストを受けれるというシステム。
これで、学校の成績が全体的に上がったのです。
しかし、全体的に実力が上がった訳ではない…
「このテストの方式が良くないと思う」と言うのです。
なるほど…確かに、
勉強が好きではない子どもには、ちょっと頑張ってみよう!と思えるシステム。
しかし勉強を得意としている子どもにとっては、簡単すぎるのです。
テストが簡単すぎると、真の実力は計れない。
反対に、難しすぎても計れない。
実力を計る為には、適度のバランスが必要…という事を考えていて、
信仰も同じかも知れないと思ったのです。
万一、太陽のように主が存在したとしたら、
疑問が生じたら直ぐに主に聞く事が出来ます。
理不尽な事があれば、主に訴える事が出来るのです。
将来に不安になれば、相談できます。
一見、良いように思えますが、
特に問題がない状態の時はどうなるでしょうか。
私たちは「見られてる」と思い、
良心に従って生きようとすると思います。
そして見られてると思い、本当は休みたいと思っていた礼拝に出席するのです。
そして、主にアピールするように弱者を助けるかもしれません。
私たちは「見える」ものに安心を感じるのです。
だからイスラエルの民も、大きな奇跡を何度も体験しても
金の子牛を作ったのです。
私たちにとって「見る事が出来る神」というのは、
主が望まれている信仰とは違う信仰になってしまうと思います。
主が望まれている信仰は、
義務的な信仰ではなく、仕方なしの信仰でもない。
偽善的な信仰でもなく、
自発的な心からの純粋な信仰。
主が望まれている信仰は、
条件や理由や納得が出来たら信じる信仰ではなく、
祈りが答えられても、答えられなくても揺らぐ事がない信仰。
主の姿を見えても、見えなくても揺らぐ事がない信仰。
小テスト前に、チラッと確認してパスできるような、
簡単な信仰を望まれていないんだと思います。
主は、万能なお方。
この世に姿を見せ、存在する事も出来るはずです。
しかし、それをされずに聖書と聖霊を残されました。
それには、私たちが測り知れない、想像もできない
主の大きな計画と深い意味がもっと沢山あるんだと思います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)