主の祝福は困難の先にある?【詩篇46:1-2】

2024年

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

詩篇46:1-2

ある姉妹の証を聞きました。

凄く大きな試練があり、またその期間も長い…

そして主の時が満ちた様で、

主が動かれた時は、あっという間に問題は終結を迎えるのです。

試練の後の恵みは大きかった様子。

「試練が大きい分、頂いた恵みも多きかった」と言われていました。

凄く恵まれた証でした。

でも、ふと思ったのです。

辛すぎる試練って私たちは嫌です。

万一、試練の大きさに、後の恵みの大きさが比例するのであれば…

プラスマイナスゼロ?

もしそうであれば、試練を軽くしてほしい…

もしくは試練を失くしてくれたらいい。

大きな祝福を望まないので、困難も大きなものはやめて欲しい

と思いませんか?

そう思うと同時に、

イスラエルの民を思い出しました。

エジプトから奴隷解放された民。

解放されすぐに死が迫ってくる恐怖を体験するのです。

民は定住するのではないので、

旅人のような人生。

安定していないのです。

結果から見ると、

40年にも及ぶ道のりを経て、

約束の地へ入ることがで来たのです。

土も水も豊かな地が与えられたのです。

民にとって、40年間は大きな困難な道のりでした。

民にとって、困難(-)と約束の地(+)で、

プラスマイナスゼロなのでしょうか?

マイナスだと感じる困難の時間…40年間、

主は共に居てくださったのです。

水を与え、マナを与え、

肉が欲しいという民にも答えられました。

暑さからも寒さからも守られたのです。

主の祝福は、

困難の先にあるわけではない。

困難の中にもあるのです。

主の祝福はプラスマイナスゼロではない…

主は、私たちの目にどの様な状況であろうと、

祝福をもたらせてくれるのです。

困難の中での祝福

困難後の祝福

しかし、目の前にある状況、環境だけに目を向けたら

私たちは直ぐに不安になる。

そしてその不安に飲み込まれると、

大きな間違いを起こすかも…

イスラエルの民のように、

モーセがシナイ山に登り、

自分が思っている以上に事が運ばないと(モーセが帰って来ないと)

民は、金の子牛という偶像を作り

「これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」

と言ったのです。

困難を感じる時、寂しさの中にある時、

孤独の中に置かれている時、

私たちはこんな時こそ、

主を見上げ歩む必要があります。

恵みを貰いながらも、全く違った道を歩む可能性があるのです。

聖書を読めば「どうしてこんな愚かな事をするんだろう?」と

思う事が多いです。

しかし、私たちは同じ人間。

私たちも、傍から見れば愚かだと分かる事を

沢山し、何とか苦難を乗り越えようともがいているのです。

でも、主は苦難の中にも共に居られ

私たちに語られているのです。

「目に写る状況に心を奪われず、私を見上げなさい」…と。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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