主はどうして天に帰られたんだろう?【ヨハネ20:27-29】

2024年

 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

ヨハネ20:27-29

私は以前から、

イエスさまはどうして復活されてから、

天に帰られたんだろう…

復活され、ずっとこの世に居られてもいいのに…という

漠然とした疑問がありました。

今日、少しだけその答えを得れたように思います。

…次男が通う学校は、去年から急に中間期末テストが廃止されました。

学生も保護者も驚いて、

「テストなしで、どうするの?」という疑問。

その意見が多く、

小テスト・単元テストがなされるようになりました。

授業ごとに、前回の授業のテストがなされ、

ひと単元が終わると、単元のまとめのテスト。

結局は、テストの小出しのような感じ…

このシステムになって1年以上たち

次男が「今のテストダメだわ!簡単すぎる…」と言うのです。

皆、授業前に、ノートやプリントをチラッと見て、

合格点を貰うのです。

単元テストにおいても、基本しかテストに出てこない様子。

簡単すぎて、皆が合格点を直ぐに取れる。

勉強が凄く苦手な学生には、やる気が出て良いかも知れないが

凄く苦手な学生以外にとっては、

実力は付かない…と言うのです。

それを聞いて、

テストって簡単すぎると、受験者のレベルは測れない。

難しいと、勉強している人と、していない人の違いが浮き彫りになる。

簡単すぎてもダメで、難しすぎてもダメ。

と言う話を次男としました。

そして、何となく思ったのです。

もしも、イエスさまが復活後、

天に帰らず、この地にずっと居られたら…

今の時代にもいらっしゃったら…

一目見て「神」だと認識できるのではないか?

2000年間も生きる事が出来る人は居ないし…

「私が神だ」と当たり前のように、

目に見える存在でいらっしゃったら、

誰もが迷うことなく、

太陽を見て、誰も疑問を持たずに

「あれは太陽」という認識が出来るように、

主をみて「神」と認識できるようにすれば、

全ての創造物が、迷いなく神だと崇めれるはず。

そして何よりもまず、全ての創造物が主を信じるという事は、

主が望まれている事…。

にも拘らず、主は天に帰られた。

主は、天に帰らず、地に留まる事も出来たはず。

しかし、そうはされず、

聖書と聖霊さまを残されて天に帰られた。

なるほど…と思ったのです。

もし、主が天に帰らず、この地に存在されていたら、

神だと認識できても、

神に対して、感謝と愛はないと思います。

太陽を見て、時には太陽の有難みを感じますが、

日々の生活において、

太陽に感謝する事。太陽の有難みについて考える事はない。

存在が当たり前だから。

主がもし、この地にいらっしゃったら、

何か困った時、主に伺い、答えを得て生きていく。

それは今の時代で言えば、chatGPTに聞くような感覚になるのではないか?

神と言う存在が「便利なツール」と言う感覚になってしまうのではないか?

または「信号機」のように、赤は止まれ。青は進めと

一目で皆が分かる善悪の判断基準のツール。

便利なツールに対して、愛はないし、心からの感謝もない。

私たちの主は、私たちと個人的な関係を望まれる神。

形式的な関係を望まれていない。

主は、私たちと個人的な関係、愛し合う関係を持つ為に

天に帰られたのではないか?と思ったのです。

私は、簡単に「どうして天に帰られたんだろう?」

「この世に存在されれば、もっと簡単に人間は主を信じる事ができるのに」

という浅はかな考え…

主には、私が悟る事が出来ない位、

もっと深い深い意味や理由、目的をもって

天に帰られたんだろうな…と思いました。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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