ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。マルコ1:30-31
今日、聖書を読んで恵まれた箇所です。
他の福音書(マタイ、ルカ)とは少し話の流れが違いますが。
恵まれたマルコから記録したいと思います。
マルコの福音書によると、
イエスさまは、熱病で苦しむシモンの姑に近寄り、
手を取って起こされ、
すると熱が引いたのです。
そして姑は、イエスさまたちをもてなすまでに快復したのです。
イエスさまは、姑を、先に熱から解放させなかったのです。
まず手を取り起こしたのです。
熱病で苦しんだと書いてあるので、
もしかしたらかなりの高熱だったのかもしれません。
主が来て下さり、手を取って起こされた。
余りにの苦しみに、主の応答に答えないという選択もあります。
私は病院でパートをしながら、
患者さんが、医師の指示に従わない姿をよく見ます。
「できますよ!立って見て下さい」と言っても
「出来ない…立てない」と
立とうとしない姿…
治療を受けようとしない姿
タバコを禁止されていても、隠れて吸ってしまう姿…
…しかし、ここに出てくる姑は、苦しみの中にあっても
主に従ったのです。
すると、熱が下がったのです!
主は、まず熱を下げ、そして姑が起き上がり、
素晴らしく回復したのではないのです。
この部分を読みながら、
ヨシュアが契約の箱を持って、ヨルダン川を渡る話を思い出しました。
契約の箱を担いだ祭司たちは、
民の先頭に立ち、ヨルダン川に足を入れたのです。
水の流れが止まり、全ての民が川を渡ったのです。
この時も、足を入れるまでは、
川の水は、普段通り流れていたのです。
祭司たちが水に足をつけた時に、水が止まったのです。
…私たちは、目の前の流れる川を見ながら
「主よ。いつこの川の流れが止まりますか?」
「私は、この川を渡りたいです」
「渡る準備が出来ました。主よ。早く水を止めて下さい」と
普段と変わる事がない水の流れる川を見ながら
足踏みしてしまっている事が多いと思いました。
…主は私たちの「信仰を見られる」
主の業がなされるのは、私たちの信仰を見て…かもしれません。
私たちは「主よ。いつですか?」
「あなたの助けはいつですか?」と
変わらない現状を目の前にして、
私たちは、ずっと主を待ち望んでいるかもしれません。
しかし実は、主が私たちを待っておられるのです。
「あなたは、いつ私を信頼して一歩進むんだろう…」
「あなたを助ける準備は整った。後はあなたが私を信頼し進むだけだ」
…熱病に苦しみ辛い中…
私たちは苦しみから癒されたら、起き上がります!
と思ってしまいがちだと思います。
苦しみがなくなったら、礼拝できるのに。
豊かになったら、献金できるのに。
悲しすぎて、賛美出来る気分じゃない。
私たちの思考はこのようかもしれません。
しかし、主の思考は違う。
苦しみの中にいるなら、礼拝しなさい。
自分が持つ中で私に捧げなさい。
悲しむ者よ。私を賛美しなさい。
…私の助けが必要なら、もっと私に近付きなさい‼
私は、いつも主を待っていると思っていますが、
本当は、私は何度も何度も、
主を沢山待たせてしまっているんだろうな…と思います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)