私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。詩篇16:8-9
今日の御言葉はダビデが書いたものです。
ダビデがサウル王に命を狙われていた時の歌です。
私たちも、人生を歩みながら、沢山の問題や困難に苛まれます。
解決方法がなさそうな問題。
自分ではどうする事も出来ない問題。
ダビデは、問題が多い人生です。
この詩編の歌は、
サウル王の指揮によって、命を狙われていた時に歌ったものです。
ダビデの凄いと思う事は、沢山ありますが、
サウル王から解放される事で
「安心」「平安」を得ようとしたのではなく、
彼にとっては、主が共に居て下さる事が「安心」であり
「平安」であったのです。
私たちは、直ぐに目の前の問題に、心も頭も体も捕らわれてしまい、
問題解決のみが「解放」であり「安心」「平安」だと思っています。
だから「問題解決」を主に望むのです。
ダビデと私の大きな違いは、
「焦点」です。
ダビデは、問題の向こう側にある「主」をみているのです。
ダビデは常に自分の前に「主を置いた」のです。
私は、直ぐに自分の前に「今ある問題」を置き、
あれやこれやと思考するのです。
問題と私の間に、主が入って来れないのです。
問題の背後にある主に目を留めれていないのです。
…こんな証を聞いた事があります。(ざっくりの記憶ですみません)
ある宣教師がアフリカのA部族に伝道に入りました。
そこで主に救われる人たちが与えられ、
隣のB部族にも福音を伝えようと、A部族の人の案内でBへ向かったのです。
道中、Aの人が蛇に噛まれてしまいました。
Aは宣教師に文句を言ったのです。
「キリストを信じたのに。どうしてこんな事が起こるんだ!」と怒り、
宣教師を穴に落として去ったそうです。
1人では抜け出せない大きな穴。一晩過ごしました。
そして次の日の朝、Aが戻って来て謝罪をしたそうです。
話を聞くと、Aはその後、怒って自分の部族に戻る道中、
自分の後ろからC部族が近づいてきて、拘束されたそうです。
AはCがどういった部族なのか知っています。
自分がいけにえになると直感したそうです。
CはAを捕まえ、服を脱がせた時、
数時間前に蛇に噛まれた後を見たそうです。
そして体に傷があると判断し、いけにえには使えないという事で
解放されたそうです。
もし、宣教師とAが蛇に出会わず、道を進んでいたら、
2人ともいけにえになっていたそうです。
蛇に噛まれるというのは、「主の守り」だったのです。
蛇に噛まれた時は、怖いし痛いし、最悪でしかありません。
その時は、心底腹が立つのです。
しかし、後で出来事を振り返って見ると、
蛇に噛まれなかったら、2人ともいけにえです。
…ダビデが「自分の前に主を置く」とは、
頭を悩ます問題の背後にいる主を覚える。
この問題の背後に、主が計画を持っておられると信じる。
蛇に噛まれた事は、嫌な事。悲しい事です。
しかし、その背後にいる主を知った時、
蛇に噛まれた事は、突如として
「感謝な事」であり「主の守り」だと分かるのです。
その事実を知った時、
私たちの魂は喜びに満たされ、主の計画を楽しむことが出来るのです。
この経験は、
次の困難に遭った時に役に立ちます。
困難の中でも「期待」を持てるからです。
問題の背後に主を感じる事が出来れば…
私は揺るぐことがない…
このような信仰者になりたい…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)