私は分かった気になっている…【創世記4:3-5】

2024年

ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、
アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た、主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

創世記4:3-5

今朝、起きた時…

「あーカインとアベルだ~」と思ったのです。

何か夢を見ていたのかも知れないのですが、

どうしてカインとアベルなんだろう…と思いつつ、朝のストレッチ。

そして分かったのです。

昨日のブログの続きですが、

私たちは礼拝後にまず思う事は、

「恵まれたかどうか」です。

「今日のメッセージは、凄く恵まれた!」と嬉しく思い、

また、忙しい中、疲れた中、教会に来てメッセージを聞けて良かったと思うのです。

反対に、

礼拝後に「今日のメッセージはイマイチだった」と感じたら、

「交わりを楽しもう」と思います(笑) ←良い事です。

礼拝後にまず、今日の礼拝はどうだったか。

自分にとって恵みだったかを考えてしまうのです。

しかし、本来、礼拝とは

私たちが何かを受ける為にするものではなく、

礼拝と通して、主が私たちの姿をご覧になり、

主が満足されたかどうか。

「今日の礼拝は、主が喜ばれただろうか…」と考えるべきなのです。

昨日は、ここまで書きました。

そして今朝、何故か「カインとアベル」を思い出し…

そうなんです。

カインとアベルは、2人とも収穫を感謝して捧げものを捧げました。

これも「礼拝」です。

カインとアベルは、アダムとエバの子どもであり、兄弟です。

兄カインは、土を耕す農夫であり、

弟アベルは、羊を飼う羊飼いです。

ある日、カインとアベルはそれぞれが、主にささげ物をしました。

カインは、畑でとれた収穫物、

アベルは、羊の中でも1番良く肥えた初子です。

しかし、主はカインのささげ物を喜ばれず、

アベルのささげ物だけを受け入れられました。

…私はこの話を何度も読んだし、メッセージでも聞いています。

主は、形式を好まれないという事。

主は、私たちの心を見られる方という事。

主は、喜ばれる礼拝と、そうではない礼拝があるという事。

それなのに、

私は礼拝をする前に「自分にある最上のものを捧げよう!」という考えはせず、

礼拝の時間、席に座っているのです。

そして礼拝後には「自分は、この礼拝で何を得れたか」を考えているのです。

何度も何度も、このカインとアベルの話を通して、

礼拝とは…

主に喜ばれる姿で、主の前にでる…

決して、自分が得るためにするものではない。

という事を学んでいるはずなのに…

頭で分かっているだけで、

自分には、聖書が語る大切なメッセージを、

自分には、「適応」出来ていなかったのです…

私は信仰生活を何年しているんだろう…(答え:30年💦)

にも拘らず…

本当に、分かった気になっている事が多い…

自分に適応出来ていない…

主は、今まで私の礼拝で悲しみを感じておられたんだろうな…

神さま、今までごめんなさい…💦

これからは、

主に喜ばれる姿、喜ばれる心、態度、賛美、祈りで礼拝を捧げよう!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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