こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。コロサイ3:1-2
お金持ちとラザロの話。
2人とも天に召され、お金持ちはハデスで苦しみ、
貧しいものはアブラハムの懐に連れて行かれたと書かれています。
そしてお金持ちはアブラハムに2つのお願いをしたのです。
炎の中で苦しいから、ラザロの指を水で浸し、私の舌を冷やすようにラザロをよこして欲しいと。
もう1つは、
私の兄弟たちが苦しみの場所に来ないように、ラザロを私の父の家に送って言い聞かせて下さい。
という2つの願い。
この個所を読むと、人間って本当にどうしようもない高慢さが見えます。
お金持ちはハデスという場所で苦しんでいます。
お金持ちは、兄弟たちが悔い改め、ここに来ない事を望んでいますので、
お金持ちは、自分が今苦しんでいるのは、今までの人生による結果だと分かっているのです。
自分の好き勝手な人生を振り返り、それが間違っていたと分かったのです。
そしてラザロは、自分とは正反対にアブラハムの懐にいるのを見たのです。
という事は、自分の人生は間違っており、ラザロの人生はそうではなかったと知ったのです。
しかし…自分がそのような立場だと分かっていながら、
まだラザロに指示をだし、自分の思う通りに使おうとしているのです。
自分とラザロの関係は、自分が上でラザロが下なのです。
地上でそのような立ち位置で過ごしたはずです。
そして、今もこの場に及んでも、その立ち位置は逆転出来ていないのです。
煮えたぎる炎の中に居ながらも、ラザロを使いに出そうとしているのです。
自分が滅んでいるのに、まだ自分の頭の中は、心からの悔い改めではなく、
ラザロに対して「もっとこうして助けてあげれば良かった…」というような思いはなく、あるのは高慢さです。
そういえば…
イエスさまが十字架に架けられた時、
左右に強盗が一緒に十字架に架かっていました。
その強盗の一人も、群衆と同じようにイエスさまを罵っています。
自分も公然たる場所で、罪人として十字架で今から死ぬのです。
それにも関わらず、群衆と共に同じようにイエスさまを罵っているのです。
初めて聖書を読んだ時、強盗が罵ったって本当かな…と思いました。
私たち人間って凄くないですか?
自分が滅んでいるのに、今まさに死のうとしているのに、悔い改めれず、自分が上にいるように思ってしまうのです。
そう思った時に、
「命ある今」が大切だと思いました。
「人は生きて来たように死んでいく」という言葉があります。(聖書の言葉ではありません)
文句ばかり言っていた人は、文句を言いながらこの世を去り、
いつも感謝が口から出ている人は、この世を去る時も感謝して去ると言われています。
だから、今、まだ時間が与えられている間にどう生きるかが問題。
パウロは私たちクリスチャンに
「上のものを目指して生きなさい」と言われました。
「地上のもの」ではなく「上のもの」…
地上のものとは、自分を中心に置き、自分の欲や利益となるもの。だと言えると思います。
上のものとは、単に「肯定的・積極的思考を持って生きよう」ということではなく。
この世と分離して生きるというのではなく、
主への感謝と喜びをもって敬虔に歩む。
一人ひとりに与えられた主の召しに、応答する生き方。
今日の御言葉を見ると、
上にあるものを「求めなさい。」
天にあるものを「思いなさい。」とあります。
主を求め、主を思い続ける生き方です。
…ラザロがアブラハムの懐に行けたのは、ラザロに信仰があったとは記載されていません。
ラザロが主を信じていたかどうかは聖書からは分かりませんが、
アブラハムの懐に行けたのです。
という事は、主の目には「義」とされたのです。
その証拠に、聖書には沢山の例え話が書かれていますが、
この個所だけなのです。
人の名前が書かれた例え話は。
ラザロだけが「ラザロ」と記録され、
他の例え話は「お金持ち」というような代名詞で書かれているのです。
人の目には、ラザロは決して良く映らないかもしれません。
しかし、主が心を見られるというのが、このラザロの話を通して分かる気がします。
上のものを見上げて生きる生き方は、
この世の価値観では、豊かではないかもしれません。
しかし、大切なのは主がどう見られているか。
命が与えられている今から、上のものを見上げ、思い続ける生き方をしたいです。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)