神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるか見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。
創世記2:18-20
子どもの学校の保護者で、韓国のクリスチャンの人がいます。
日本に来て10年以上…日本に来てから信仰を持ったようです。
コロナが終わってからというもの、教会と少し距離が空いてしまっているのです。
見かける度に「今週、教会行ってよ~!!」と声をかけるのですが、
決まって彼女は「なんか電車乗ってわざわざ行かなくても、今はネットで礼拝捧げれるし… 自分の好きな時間に礼拝できるのに… わざわざ行くのって…」
私「いつでも礼拝できると思ってるから、礼拝しない週、増えて来てるよね?(笑)」
保護者「どうして分かった??(笑) そうなのよね~(笑)」
私「教会に行くって事が大切… 行く道中、心を主に向ける準備にもなるし。教会での交わりも本当に大切なんだよーー」
私は、基本的にはクリスチャンは教会へ通う事が大切だと思っています。
もちろん、諸事情があり通う事が難しい人も居られます。
家族の反対がある人もいるでしょうし、
身体的な問題もあります。
また、教会で傷つき、教会へ行く事が難しく感じる方もいらっしゃいます。
何が何でも通って!!とは思っていません…
しかし、可能であれば… 通って欲しいと思っています。
この学校の保護者は、特に行けない問題はなく、
礼拝以外の行き帰りの時間などを考えたら、
わざわざ行かなくても…という思いが勝ってしまうようです。
そして少しずつ、教会から離れてしまって行ってるのです…💦
昨日もその様な会話があり、今日、彼女を思い出し祈っている時に思い出した事があります。
創世記です。
神さまがこの世を創造され、全てのものを見た時に「見よ。それは非常に良かった」と記録されています。
しかし、神さまが創造されたものをみて
全てを良いと思われたのに、1つだけ「良くない」と記録されています。
「人が、1人でいるのは良くない」と言う部分です。
そして、神さまはあらゆる生き物をアダムの前に連れてきて名前を付けさせました。
その様子を神さまはご覧になられたのです。
そして「人には、ふさわしい助け手が見つからなかった」と言われています。
どうして、生き物を連れて来られ、アダムに相応しいのかご覧になられたのでしょうか。
どうして全ての生き物を、相応しくないと判断され、エバを造られたのでしょうか。
動物もエバも、主の被造物です。
どうして、同じ被造物でありながら、相応しくないと思われたんだろう…
動物と人間の違いはなんだろう。
動物は、私たちと言葉は通じなくても、喜びや悲しみ、恐れ、怒りなどの感情を持っています。
聖書を読むと、私たち人間を創造される時、神さまは「われわれに似せて造ろう」と言われています。
また人間に、この世界の地の全ての物を支配するようにと言われました。(1:26)
それはこの世界の支配者になるというより、管理に近いかもしれません。
主が「非常に良かった」と言われた、この世界を、
良い状態で、この世の管理を任されたんだと思います。
今の時代の私たちも、主が非常に良かったと言われた沢山の良いものを見る事ができます。
私たちは、太陽の光を浴び、月を眺め、風を感じ、自然を眺め、時が来れば、季節に沿わせて花を咲かせ、時が満ちると実がなるのを見る事ができます。
また私たちには、主が造られた世界の美しさに「感動できる心」が与えられているのです。
そして聖書に書いてあるように、私たちには自然を通して、生き物を通して、主の存在を感じる事が出来る能力が与えられているのです。
また、その自然を見て「感嘆する思い」を、私たち人間には与えられ、
その感嘆を共に分かち合い、
主を崇める事ができるのは人間だけです。
主の作品に感動し、主の偉大さを感じながら、共に歩む事を望まれているのです。
しかし実際、私たちは日々の生活に追われ、何かにつけショートが好まれる世の中で、
ますます私たちは主を感じにくく、
また次から次へと情報が流れる日常で、
私たちは深く物事を考え悟るという事をしない様になって来ているのではないでしょうか。
特に日本では、クリスチャンはマイノリティーな存在です。
主を中心とする価値観を持って生きていく事は、たやすいことではないのです。
この世の常識や価値観と、主の価値観には、大きな差があります。
私たちは信仰を持っていても、この世の価値観が溢れている中で生きているのです。
この世の価値観が「正」とされている流れの中で生きているのです。
「もし一人なら、打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。
(伝4:12)」
とあるように、
1人で信仰生活を守るより、主を中心とし、生きて行こうとする友が必要なのです。
その友と出会えるのが教会であると思います。
教会に通う理由は(これだけではないですが、)
自分の信仰を守るためでもあり、
また交わりを通して、互いに自分が知らなかった主を知っていく事ができます。
そして、信仰は自分だけのものではないのです。
主は、この福音を全世界に伝えなさいと言われました。
主の救いを他の人に伝える為に、私たちは共に祈り準備する必要があるのです。
「二人でも三人でも、私の名において集まる所には、私もその中にいるからです(マタイ18:20)」
共に心を合わせ祈る事を主は望まれているのです。
教会は私たちにとって大切な場所だと思います。
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」