この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。
ルカ10:36
最近、「良いサマリヤ人のたとえ」を思い出していました。
ユダヤ人の律法学者はイエスさまに「どうしたら永遠の命を受けれるか」と質問しました。
イエスさまは「隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われました。
律法学者は、自分の正しさを示そうとして「隣人とは誰か」と質問しました。
自分の正しさを示そうとして…です。
自分は正しい。自分は隣人を愛していると思っていたという事です。
どうしてでしょうか。
当時は、ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲で、話をする事さえなかったようです。
簡単に言えば、この律法学者には、大嫌いな人達がいたのに、「隣人を愛する」という事において、
自分はこの点においても合格だと思っていたのです。
主が「隣人を愛しなさい」と言われた言葉に「自分は出来てる」と思っていたのです。
…という事は、この律法学者にとってサマリヤ人は「蚊帳の外」
隣人という枠にはなく、隣人という対象ではない。
サマリヤ人は、愛する対象であるという事を、想像も出来なかったのです。
自分には、非の打ちどころがないと思っていたのです。
サマリヤ人は、愛するに値しない存在だという事が、当たり前であり、正しい事だと思っていたのです。
この律法学者には、自分を正当化出来る ‟独自の理由” があったのです。
最近は、この個所から「隣人になる」という学びより、
私もこの律法学者のように、自分を正当化し、愛さなくて良い、受け入れなくよい人がいるのではないか…と考えさせられていました。
そこで思い当たるのが、仕事で行っている病院の看護師さん。
私は何の資格もない「看護助手」。
病院で働く人にとっては私たちの存在を嫌がる方がいらっしゃるのです。
それを態度や口に出して表現する方もいます。
一緒に働いている助手たちは「あの人とは距離を置く」「あんなに文句を言う人、こっちも相手にしない」などなど💦
接点を持てば、互いにストレスとなるのです。
相手にとっても私たちはストレスでしょうし、助手にとっても一言一言、毒を吐かれたように感じるのです。
この世的には、距離を取って最低限の関わりだけをもって仕事をするのが、「賢い方法」かもしれません。
私の働いている病棟にも何名かいらっしゃって(笑)
どのように接するのが良いのだろう…と日々、試行錯誤しています。
そんな事を考え始めてから、ずっとこの律法学者を思い出していたのです。
相手が私を嫌っているから、だから私も相手を嫌い。
相手が私をバカにするから、私も相手にしない。
これは、正当性があるように感じてしまいます。
だって… 仕方ない…
向こうから線を引いて来るんだから…と。
イエスさまは律法学者に「誰が隣人になったと思うか」と聞かれました。
イエスさまは「この中で誰が隣人ですか?」 と聞かれたのではなく、
誰が 「なったのか」と聞かれました。
「なった」という事は、意志をもって進んで「なった」のです。
この強盗に襲われた人は、
祭司が通り過ぎようと歩いてきた時、「あ、助けてもらえる」と思ったのではないでしょうか。
次のレビ人が通り過ぎようとした時も「今度こそ、助けてもらえる!」と。
そしてサマリヤ人が通り過ぎようとした時は「あ…助けてもらえない…」と思ったはずです。
「隣人になる」とは、意志を持って行動する事。
自分が持つ正当性な理由が、相手と関わりを持たない(助けない)理由にならないのです。
相手が一方的に私を嫌うからと言って、私も同じように相手を嫌ってはいけないのでは…と感じました。
去年の6月から働きだし、相手が私を嫌いでも関わる者となろう…と努力中です。
本当に少しずつですが、相手の方々の私に対する態度や言葉など、
変化が出てきました。まだまだだけど…(笑)
主が私を愛して下さったように、
私も人を愛せる者になりたいです!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」