人の心を何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。誰が、それを知り尽くす事が出来るだろうか。
エレミヤ17:9
私はパートで看護助手の仕事をしています。
私とは違う病棟で勤務する助手が、自分の病棟に一緒に仕事をすることが難しい看護師さんがいると悩んでいました。
その看護師Aさんは看護師さんの中でも余り馴染んでいない様子。
助手の人がAさんと同じシフトを入れないで欲しいと上司に言い、結局はAさんは私の病棟に移動となりました。(11/3のブログに登場する塩対応の看護師さんです)
そして一緒に働く中で、助手が一緒に仕事を拒否する理由が分かる瞬間が何度となくありました。
笑顔がなく棘のある言い方。発する言葉以上に人に不愉快さを与えるのです。
私は、どうしてAさんはこんな言い方をされるのだろう…と不思議でした。
そして2ヶ月程経った時、私と同じ病棟で私とは違う曜日の夜勤勤務の助手さんが、Aさんと一緒のシフトを拒否したのです。
それ以降、私はかなりの確率でAさんと一緒に仕事をすることになりました(笑)
ある看護師さんの話では、Aさんは幼少期から両親に言葉の暴力を受けて育ったそうです。
私は正直、誰と働いても良いと思っています。
確かに気心がしれている看護師さんと一緒の方が、忙しい中でもクスっと笑える瞬間があったり、楽なのですが。
かと言ってAさんを避けたいとも思ってはないのです。
Aさんを見ながら、観察し、
どうしてそんな表現をするんだろう…
Aさんって仲の良い人がいるのかな…
Aさんは、結局は寂しい思いをしてるんじゃないかな…
自分の周りから人が近づけないようにしてる気がする…
どうしてだろう…など、考えさせられることが多くあります。
誰だって、周りの人と上手に付き合いたいと思ってるはず。
どうして自分から線を引くんだろう。
Aさんを観察しながら、今日の御言葉を思い出しました。
人の心はねじ曲がっている。それは癒しがたい。
Aさんだけでなく、私たちの心はねじ曲がっているのです。
日々、生活しながら、人から傷を受けたり、失敗を通して恐怖心が出来たり、高慢さが身に付いたり、間違った自尊心、歪んだ価値観を持ったり…
真っ直ぐ正しい方向に成長せず、ねじ曲がっているのです。
ねじ曲がった心と、ねじ曲がった心が出会うから…
多分、Aさんのご両親もねじ曲がった心を持ったままAさんを育てたのです。
ねじ曲がった心で育てられたAさん。
Aさんも人生の色んな出来事を通して、ますますねじ曲がってしまうのです。
そして、同じようにねじ曲がった心で育てられた私たちと出会い、
互いに、ねじ曲がった心をもったまま、関係を結ぼうとするから
上手くいかないのです。
主から離れ、自分の力で懸命に生きようと、
ねじれ、曲がり、固くなってもとに戻らなくなっている様に感じました。
自分の力で元に戻れなく曲がってしまった私たちは、心が枯渇するのです。
飢え渇いた心を埋めようと、自分を主張したり、他人を見下したり…傷つけあうのです。
色々な思いが混ざり合い、どこからどう手を付ければ良いのかさえ分からなくなるのです。
自分の心がどうすれば良いのか分からなくなったら、
「自分の心がねじれ曲がっている」「主から離れすぎている」というサインだと思います。
ねじれ曲がり飢え渇いた心を満たす事が出来るのは、私たちを創造した創造主だけなのです。
私たちの心の状態を正確に理解しているのは主だけ。
私たちは、自分の心さえ知り尽くす事が出来きない存在。
主によってねじれを解いてもらい、主によって生きる力を得ましょう。
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」