十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。Ⅰコリント1:18-19
人生ってなんか、堂々巡りの様な気がしませんか?
良い事もあれば、嫌な事もある。
やっと嵐が過ぎたと思っても、数ヶ月、数年したら、また大きな嵐がやってくる。
イエスさまを信じても、信じなくても、この堂々巡りは同じです。
クリスチャンになってもならなくても、同じ。
では、私たちはどうして、何の為に信仰するのでしょうか。
私たちは主に出会い、罪からの解放を得たように、
イスラエルの民も、エジプトでの長い奴隷生活から解放されました。
私たちは神の子とされ御国に向かって歩むように、
イスラエルの民も、約束された地を目指す旅をしたのです。
私たちは罪の赦しと永遠の命と言う約束を握りながらも、苦難に遭うのです。
イスラエルの民も、主から祝福の約束を得ながら、何度も何度も苦難に遭いました。
まず、エジプトのファラオ王の元を去って直ぐに、ファラオの軍隊が追ってきました。
イスラエルの民の目の前は海。万事休す的な、自分で解決できない試練を経験しました。
次に、シナイ山を目指し歩き続け、のどの渇きと空腹という死活問題にも直面しました。
モーセがシナイ山に登っている間、自分たちのリーダーが帰って来ないかもしれないという不安に駆られました。
アマレク人との戦いもありました。
カナンの地に偵察に行き、自分達よりもはるかに大きな人たちに怯えました。
カナンの地に入る為に、ヨルダン川を渡らなくてはいけませんでした。
エリコの城壁も彼らの前に立ちはだかりました。
主は、イスラエルの民に祝福を約束しながらも、何度も何度もイスラエルの民は困難に遭い、恐怖に怯える経験をしました。
奴隷であった民を、どうして直ぐに良く肥えた地に導かず、このような試練を次から次へと与えられたのでしょうか。
民が主を信じ切れなかったからです。
不信仰だったのです。
これらの困難を前に、自分たちの力には限界がある。
自分の力で解決できない事がある…と悟って欲しかったのです。
主は民に、試練を与えられ「自分たちは無力だ」「自分で何一つ出来ない」という事を痛感して欲しかったのです。
自分で克服できない、自分で解決できない…
どんなに頑張った所で自分には方法がないんだ…
主に依り頼むしか方法がないんだと、心底痛感して欲しかったのだと思います。
主は、民に試練を与えられましたが、それを黙ってごらんにはなられませんでした。
不信仰であっても、愛するイスラエルの民に対して、
暑さから民を守る「雲の柱」を与え、
寒さから民を守る「火の柱」を与えられました。
マナも肉も水も、毎日不足なく与えられました。
戦いの経験がない民に対して、祈りによって勝利をする経験を下さいました。
エリコの城壁も、主に言われた通り、7度周り時の声を上げ、強固な城壁が崩れ落ちる経験をさせて下さいました。
私たちが感じる、堂々巡り…
「自分で出来る」「自分で解決できる」という思いがあるからかもしれません。
主がその思いを砕こうと、
私に頼りなさい。
私を求めなさい。
私のもとに来なさい。
と言われているんだと思います。
戦ったことがない戦いさえ、祈りによって勝利できる。
どんなに強固な壁でさえ、主への祈りは勝てない…
主はこれを教えたいのです。
目の前にやってくる問題、困難は、主からのメッセージなのです。
問題が私を覆う時、
「主よ。助けて下さい。私には何も出来ませんが、主は可能であることに感謝します。」
主に示されたら、直ぐに降伏しましょう!
祈りによって自分では出来ない事も、主には可能であるという事を体験する事ができますように!
またそれを信じる信仰をお与えください!
今日も、主と共に時間を過ごし、主をもっと知る1日となりますように…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」