サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼と、その家とすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。
しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
ヨブ1:9-11
今日、次男は、学校から帰って来るなり学校で起きた事を私に愚痴りました。
「神さまはどうしてこんな事をされたんだろう」
「何のために…」
「こんな事が起きる理由を知りたい!」を連発しました。
次男は性格がまだまだ ‟粗削り” な感じがします。
穏やかな部分もありますが、何か友達とトラブルがあると憤慨し、怒りが爆発するのです。
止まることなく自分の主張が出てきます。
一通り次男の主張を聞くのですが、次から次へと自分が考える正論が続くのです。
この次男の話は、また記録したいと思っていますが、
次男と話す中「どうして主は…」「何のために…」という言葉が心に止まりました。
私たちは、直ぐに主に「理由」を聞きたくなります。
主よ。どうしてですか?
理由を教えて下さい。
何故、この様な事が起こるのでしょうか。
主の計画は何ですか?
このような思いです。
私たちは、何か自分の人生に理不尽な事が起きたら「理由」を知りたくなります。
神さま。理由を教えて下さい。理由を知らずに従う事は出来ないし、納得する事も出来ない。
人生に苦難が理不尽に起きた時に「どうして?」というパターンは、
ヨブ記を思い出させます。
ヨブ記は詩篇やイザヤ書と同じ「知恵文学」です。
旧約聖書の歴史書、預言書、知恵文学の区分の中でヨブ記は知恵文学に属する書です。
旧約聖書の知恵文学の一番初めがヨブ記なのです。
ヨブも自分の人生で理不尽な出来事に苛まれ、「どうしてですか?」と嘆いています。
しかし、主はその理由を示されませんでした。
理由を示されないまま、ヨブの嘆きが満ち苦難が去りました。
主はヨブの事を「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と記しています。
そして主はヨブの事を「私のしもべヨブ」と呼ばれています。
この呼び名は、旧約聖書に置いて最高の称号なのです。ダビデやモーセ、アブラハムなどに呼ばれた称号です。
そのような立派な信仰を持つヨブの「どうして」という問いに、主は最後まで答えられませんでした。
どうしてでしょうか。
主が答えられていないので、私にも分かりませんが、分かる範囲で、感じる範囲で書きます。
ヨブは、主を恐れ主を愛し従ってきました。それがある日突然、理不尽に理不尽が重なったような出来事が起きるのです。
当然「どうして/何故」という問いが出てきます。
その心理は「神さまの理由が分かれば、私は納得できる」と思ったのではないでしょうか。
ヨブにとって、主は正しいお方であり、今まで間違いなく良くして下さったお方。これからもそうして下さるお方だという信仰があります。
こんな事が起こるなんて、明確な理由があるはず!だから、その理由が知りたい。理由を知って納得したい。
理由を知れば納得できると思ったのではないでしょうか。
聖書を見ると、サタンがヨブに目を付けました。
そしてサタンが主に言ったのが、今日の御言葉です。
つまり、
「人間は目に見える利益なしに、純粋に、神を恐れ信じる事が出来るのか?」という問いかけです。
ヨブの苦難の始まりは、サタンに目を付けられたのです。
サタンが、「あなたがヨブに目に見える利益を与えなければ、ヨブの信仰は無くなるはず!」と言ったからです。
もしも、主がヨブの祈りを聞き、
「実はサタンにこんな問いかけをされた」と答えたらどうでしょう。(ヨブの苦難の理由がこれだけではないかもしれないですが…)
私なら「え?それで私にこんな事が起きているのですか?」
「どうして私なのでしょうか」「どうしてそんなサタンの問いかけに対して、私は自分の子を亡くし、自分の全てを無くさないといけないのでしょうか」「主は私を捨てられたのでしょうか…」と
次から次へと新たな「どうして??」という問いが出てきます。
理由を1つ知れば、もっと多くの「どうして?」が出来てくるのです。
人間は、理由を聞いても納得できないという事です。
理由を1つ知り、もっと沢山の「何故?」が出るという事を繰り返すという事は、不信仰へと繋がります。
信仰を失う路線を突っ走ってしまうのです。
その路線に乗せない為に、主は1つも理由を答えられなかったのではないか…と思います。
…主が理由を答えられないのには、理由があるのです。
その理由の一つとして、私たちの信仰が無くならない為ではないかと思います。
次男が激しく「どうして…!」「神さまは何を考えて…」「その理由を知りたい!」と訴える姿を見ながら、
私はいつも、どの様に話せばこの子は理解できるんだろう…
次男は、自分が正しいとする正論を軸に考えます。(私もそうですが💦)
主を軸に出来ないという所からズレているのです。
基準となる軸がズレているのに、今憤慨している次男に、、、話していくのは難しいです。
時間が経ち、気持ちがフラットな状態になった時、
少しづつ話して行きたいと私は思います。
聞く耳がある時に、聞く心が準備出来ている時に…
憤慨し訴えるように「どうして??」と聞かれても、答えられない…
何故なら、私にその理由を聞く準備が出来ていないから…かもしれません。
今日も、主の軸が自分の軸となりますように、主の軸に近づけるように…主と共に歩みましょう!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」