それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはネヘラム人シェマヤと、その子孫とを罰する。彼に属する者で、だれもこの民の中に住んで、わたしがわたしの民に行おうとしている良いことを見る者はいない。―主の御告げ―彼が主に対する反逆をそそのかしたからである。』」
エレミヤ29:32
目に留まった御言葉がありました。
エレミヤ書です。
イスラエルの民は神の声に聞き従わず、罪を重ねました。
当時のイスラエルには偽預言者が沢山居ました。29章に出てくる「シェマヤ」という予言者も偽預言者でした。
イスラエルの民にとって、聞こえの良い予言をしていました。
それと同時に、主に遣わされたエレミヤと言う予言者は、主が語られた通り民に伝えました。
民にとっては厳しい過酷な預言だったのです。
民は、シェマヤの預言者の言葉に惹かれていきます。
そんなシェマヤに主が語られた内容が今日の御言葉です。
民を惑わせるシェマヤに対して、「シェマヤと子孫を罰する」と言われました。
そしてシェマヤに属する者は、「私が私の民に行なおうとしている良い事を見る者はいない」と言われたのです。
ん?? と思いませんか?
今からイスラエルの民は、バビロンの捕虜として70年間過ごすのです。
しかし主は、イスラエルの民が捕虜となることを、
「私が行おうとしている良い事」と言われています。
捕虜として連れて行かれ、労苦を強いられるのは目に見えています。
バビロンの国にお客として招きを受けて行くのではなく、奴隷として連行されるのですから。
私たちがこの当時のイスラエルの民だとしたら、どうでしょうか。
お先真っ暗…ではないでしょうか。
人生がある日突然、一変して奴隷として過ごす事になるのです。
どの様に感じるでしょうか。
私たちの不信仰がもたらした「罰」だ…と思いませんか?
神の天罰が下った…と。
「明日から捕虜となる」と聞いて喜ぶ人は一人も居ません。
今までの全ての物を置いて、または略奪されて、身一つで連れて行かれるのです。
私たちにとっては、試練以外のなにものでもない…
しかし、今日の御言葉の箇所を見ると、
私たちの価値観や、目に写るものへの判断力が、主と違うという事が分かります。
捕虜としての道は、単なる罰でもなく、単なる苦悩でもなく、単なる悲しさではないのです。
それらは私たちが感じる感情に過ぎないということです。
主は「良いこと」を私たちに与えられる。
シェマヤは、まやかしを予言し民を惑わせたので「罰」として「良いもの」を受ける事が出来なかったのです。
主の祝福は、見た目がHAPPYなものだけではない…💦
主の計画は壮大で、私たちは、頂いたものの先を悟る事は出来ないのです。
頂いた、与えられた瞬間の思いが、全てである私たちには、
主の深い計画を想像する事はできない…
だから、主の言葉だけを信じ受け入れていく…
「あなたの一生を良いもので満たされる(詩編103:5)」という御言葉もあります。
今、私に与えられているものは、
私にとって良いもの。
私にとって必要なもの。
主が私に与えたいと思うもの。
自分の目にはそのように映らなかったとしても、
感謝して受け取り、
与えられたものの意味を伺い祈っていくという方が良いんだな…と思いました。
今日も、主を信じ、主に感謝し歩む一日をお過ごしください!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」