神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
創世記3:9-10
私は生活する中で、よく心に浮かぶ御言葉(内なる声)があります。
それが今日の御言葉にある「あなたはどこにいるのか」です。
朝起きてから寝るまで、出来る限り主を覚えて生きて行きたいと思っています。
一日に何度も主を思い出しては祈ったり。
歩きながらも主に語りかけるように話しながら時間を過ごしています。
でも、つい忘れる事もあるのです。
友達と話している時、
誰かに何かを説明している時、
仕事をしている時、
子どもの学校の問題を取り扱っている時、
何かに集中している時… 時折、心の中に言葉が響きます。
「あなたはどこにいるのか…」
これは、アダムとエバが善悪の知識の木から実を食べた後、主が語られた言葉です。
主は、
アダムとエバが何をしてしまったのか。
どういう経緯で罪を犯してしてしまったのか。
全てご存知でした。
「あれ程言ったのに!」「どうして!」「何故、あなたたちは食べたんだ?」と言われず、
「あなたはどこにいるのか」と言われました。
主に食べてはいけないと言われていた実を食べ、アダムとエバに罪が入ったのです。
罪が入り、今までに経験した事がない感情が生まれました。
「恐れ」です。
人間は主から離れて、まず感じる感情は「恐れ」なのです。
主の前に立てなくなったのです。
そしてアダムとエバが、まずとった行動は「隠れる」なのです。
自分が裸であると気付いたのです。
もちろん、それまでも衣服はなく裸でした。
実を食べる前までは「主の義」で、彼らは覆われていたんだと思います。
しかし、それが無くなり罪で覆われてしまった自身に気付き、
「自分が裸である」と気付いたのです。
自分を守る主の義が無くなっている事に気付いたのです。
…主が尋ねられたのは、もちろん隠れた場所を聞かれたのではなく、
「あなたは今、どこに立っているんだ?」
「あなたは今、何の上に立っているんだ?」
「あなたは今、誰と共に立っているんだ?」
あなたは、私から離れ、罪の中に立ち、罪の上に立ち、罪と共にいるのではないのか?
そう聞かれたアダムもエバも、責任転換を始めたのです。
どうして素直に「ごめんなさい」と言えなかったんだろう…
この部分を読む時、この御言葉が心に響く時、
思い出す経験があります。
韓国に留学し2-3カ月した時、大邱(テグ)という所に住む、お姉さんが家に遊びにおいでと言ってくれました。
この人は、日本で知り合った韓国人で日本語が上手でした。
私はソウルに住んで居り、1人で高速バスに乗り大邱駅へ。
それから路面バスを2度乗り換えてお姉さんの家を目指しました。
当時、韓国語が余り出来ない私…
韓国はバスが凄く多く乗るのが難しいのです。
出発する前に、ソウルにいる韓国の友達とお姉さんが電話で話をし、大邱駅から自宅までのバスの乗り方などを教えてもらいました。
そしてソウルの友達に、紙に韓国語で
「日本人の留学生です。韓国語が余り出来ません」「これは〇〇行きのバスですか?」「〇〇停留所まで行きたいです」「目的の停留所に着いたら降りるように言って下さい」など。
私が言えないフレーズを紙に書いてくれ、それを運転手さんに見せながら一人で自宅まで行くという事をしました。
予定では午前中に自宅に着くはずだったのですが、道に迷いました💦
「ここだ!降りて!」と言われた所で降りても、次に乗るべきバスを見つけられないのです。
色々な人に紙を見せても、「ここではそのバスはない」と言われ、
「あっちに渡って、〇番のバスにのれば、乗り換えれる」と教えてもらってバスに乗っても、
乗り換えのバスはないのです。
色々な人が、「あっちだ」「こっちだよ」「向こう側」「降りて!」と言われるがままに行動したのですが、
結局、建物も人もいない所にポツンと一人立つ羽目に…
もう夕方になっていました。
携帯がない時代… 1つの公衆電話を見つけ、心配してるであろうお姉さんに電話をしました。
「心配したよーー💦 大丈夫? 迷ってるの? 今どこ??」と聞かれました。
どこ?と聞かれても、自分が何処にいるのかわかりません💦
目印になるものが何一つないのです。
「とりあえず自分は無事だから!何とかして行くから!大丈夫!私は大人だから!(笑)」と言い
一先ず次に来たバスに乗り、人が居る町まで行きました。
もうお腹もペコペコで足が棒です。
適当な所でバスを降りたら目の前に交番を発見!
「もうこの手段しかない(笑)」と思い、交番へ…
「私は日本から来た留学生です。韓国語が出来ません。ここに行きたい!!」と紙を見せ、
私の狙い通りパトカーで送ってもらいました。
この時に思ったのは、
私は、目的地にばかり目が行っていました。
一番大切なのは、現在地。
今、自分が何処に居るのか。どこに立っているのか。
何処にいて、何処を目指しているのか、
それを知る必要があるのです。
まず自分の現在地を知り、そして目的地を確認し、どの様に進んでいくかを考えないといけないのです。
「あなたはどこにいるのか」
主も、現在地を聞かれたのです。
どうしてそんな事をしたのか?ではなく、現在地を聞かれているのです。
あなたは今、どこにいるのか。
神から離れどこに立っているのか。
ここでアダムとエバが自分の現在地を理解し、主から離れてしまったと認めれば(謝れば)、目的地(主と共に歩み続ける)に行けたのではないか…と思います。
私たちも、今、自分がどこにいるのか。
自分は何の上に立っているのか。
自分の現在地を知る必要があると思います。
自分がどれ程、主から離れているのかを認識し、認め、謝り、そして目的地までの道を教えてもらうのです。
「あなたはどこにいるのか」という主の言葉に、
「あなたは私から離れてしまっているよ!」
「早く帰って来なさい!」
という意味が含まれている様に感じます。
「私はあなたの帰りを待っている! 早く帰っておいで!」と。
私は、自分の心にこの御言葉が響く度に、一日に何度も、主のもとに帰ります。
自分の現在地…考えてみるのも良いかもしれません!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」