あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
エペソ2:8-9
今日の御言葉は有名で、何度も聞いた事があるものです。
私たちは自分の「行い」によって救われたのではない・・・
万一、行いにより救われるとしたら、
人々は、我こそはと、大きな行いをすると思います。
お金持ちや権力者から救われるかもしれません。
もしかしたら、上流階級限定の救いになるかもしれません。
それを踏まえて、「誰も誇る事がないために・・」と書かれているんだと思います。
世の中の宗教とされているものは、「行い中心」が多いかもしれません。
捧げるという行いが重視されれば、救いに平等性はないのです。
力あるものだけが救われるのです。
聖書は、「行い」にって救われるのではない!とハッキリ書かれています。
「信じる」という信仰により、救いを受けれるのです。
救いは、狭き門ではなく、開かれた門なのです。
しかし、一見、今日の御言葉と正反対に感じる箇所があります。
➀「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。(ヤコブ2:26)」
「行いのない信仰は死んでいる・・」
これはどういう事でしょうか。
行いなしには、信仰は持続しないという事なのでしょうか。
他にもあります。
②「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです(マタイ7:21)」
主の御心を行う者が天の御国に入る・・
この2つの御言葉を見ると、「行い」は必要なのです。
ある宣教師の方がこんな事を離しているのを聞いた事があります。
「日本人は本当に良心的に生きている。自らが正しく生きようとする。だから福音が入りにくいのではないか?」
「良心に従えず、葛藤しながら背くような生き方をすれば、自分が罪人だって分かるのに。」
「正しく生きよう!と凄く心掛けるから、自分が罪人だという自覚あまりないように思う・・」
日本人は、特に宗教を持たずとも、良心にしたがい正しく生きよう。正しい行動をしようと心がける人が多いように思います。
しかし、いくら正しく良心に従ってよい行動をして生きたとしても、「救い」とは別問題なのです。
つまり、「行動」だけでは「救い」を得れないのです。
「行動」があれば「信仰」があるのではないのです。
今日の御言葉を黙想すると、
3つのタイプがあるように思います。
「救いを得ていない人」
「救いを得た人」
「深い救いを得た人」
つまり、「信仰」を持ち「救い」を得た人は、「救いを得た人」であり、
そして得た救いが深くなれば、感動が大きくなれば、感謝が大きくなれば、
「深い救いを得た人」となり、行動が伴うようになるのです。
「救いを得た人」と「深い救いを得た人」の差は、「行い」なのです。
主の救いが、心の底まで、身体の隅々まで満ち、感謝が溢れる時、
人は「行動」するようになるのです。
ここで・・「え・・じゃ、深い救いではなく、普通の救いで良い!」と思わないで下さい!
主は私たちを愛して下さっているのです。
その愛に対して、私たちも自分の最大の愛で答えるべきではないでしょうか。
恋人関係でも、相手が自分の事を「ちょっと好き」より、
「すっごく好き」の方が嬉しいですよね。
「ちょっと好きだよ」という恋人の愛に満足でいるでしょうか。
人は、信仰によってのみ救われます。
➀と②の御言葉は、「救われた後」どのように成長していくか、
「救われた結果」どの様な生き方をするか・・という御言葉です。
主の愛に答える信仰を持ちたいです・・
今晩も、主の愛に満たされ、交わりを持つ時間をお過ごしください!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」