イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでもあなたがたにできないことはありません。
マタイ17:20
揺れ動くことがない強い信仰が欲しくないですか?
誰かを見て「あ~ 私にもあの人のような信仰があれば・・」と考えた事はないですか?
しかし聖書をみれば、
主は「強く大きな信仰を持ちなさい」とは書かれていません。
「あなたの信仰を大きくしてあげよう」とも言われていません。
からし種ほどの信仰があれば、山をも動かす事が出来ると書いてあります。
この「山を動かす」という言葉は、ユダヤの慣用句のようです。
非常に困難で本当に不可能だと思う事を解決する。という意味です。
からし種は、一番小さい種と言われています。
しかし、からし種は成長したらどんな野菜よりも大きくなるようです。
聖書が言う「からし種」とは、無限の可能性を意味しています。
また、マタイ21:21にも、信仰により「山を動かす」という事を言及しています。
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。(マタイ21:21)
ここで分かる事は、
信仰は大きく立派でなくて良いのです。
「疑う事がなければ・・」と書かれています。
信仰の大小が問題ではなく、わずかな小さな信仰であっても、疑う事がなければ例え不可能と思えるような大きな問題があっても解決できるのです。
主が私たちに求めるものは、立派な信仰ではなく、からし種ほどの小さな信仰。
小さな信仰でかまわないから、疑わずに信じなさい・・という事です。
そうすれば「山をも動かす」ことがなされるのです。
自分の信仰が、山を動かす事ができるのではなく、
私たちが信仰している主に、山を動かす力があるのです。
弟子のペテロにも信仰がありました。
主を信じ、湖の上を歩いてイエスさまの元に行こうとしました。
しかしペテロは、直ぐに風を見て怖くなり、沈みかけたので叫びました。
そこでイエスさまは、
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。
疑うという事が、信仰をダメにするのです。
では、何が何でも信じればいいのでしょうか・・
疑わずに盲目的にキリストを信じなさい・・というのではないと思います。
私たちは、霊的に主と離れ生きて来ました。
そして主と出会い、疑問を持ち、聖書が本当に真実な物なのか、今も生きておられる神がいるのか・・
と疑問に思い考え、悩み、祈る時間が必要です。
疑問を持ち(疑いを持ち)主を求めて(調べて)良いのです。
そして「イエスキリストは神の子であり、私たちの救い主だ」と悟った時、そこからは疑う事を辞めなさい・・という意味だと思います。
しかし実際には、信仰生活を送る中、何度も何度も疑ってしまいます。
目の前の問題が多きれば大きい程、私たちのメンタルは弱くなり、何もかもが不可能に感じ、
「主は本当にいるのか」
「今も本当に生きて働かれているのか」
「今まで自分が経験してきた主は、本当に今もいるのか?」
「今までは偶然の出来事であって、自分が勝手に主がなされた・・と思い込んでいただけではないか?」
と頭の中に疑いがグルグル回るのです。
そんな経験を繰り返しながら、何度も何度も主が今も生きておられ、私の神であると信じる信仰を持てるようになります。
もう・・何度も私を疑ったよね?
そろそろ、疑う事を辞めて「信じる!」という事を選択し、「信じ切ろう!」と言われているのです。
信じ切る時、からし種ほどの小さな信仰は、他の何よりも大きく成長し、鳥を休めるほどになる。
小さなあなたの信仰は、疑わずに信じる事により、何よりも大きく成長し、隣人を休め、主のもとに導く存在となれる・・
そろそろ「疑う」という事を辞めましょう。
今日、「主を疑うという事を辞め、からし種の信仰を持つことが出来ますように」と祈ってみましょう!
疑わずに信じる者となりますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」