『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
マタイ5:43-45
「良い人に悪いことが起こるのは何故か」・・難しいテーマです💦
この答えは「分からない」が正解だと思います。
しかし・・分かる部分だけでも整理したいな・・と思いました。
世の中には、理解が出来ない事が沢山あります。
良い人に悪いことが起こるのは何故か
神が愛ならどうして悪が存在するのか
病気、障害、戦争、テロ、飢餓、差別、貧困、災害・・
・・この様な「どうして・・」と言いたくなる疑問は、あげればキリがない位あります。
世の中には、不条理・理不尽に感じる事柄が多いからです。
私たちが「神さまがいるのにどうして・・」と言いたくなる出来事は、私たちにとってマイナス的な出来事です。
この世にない方が良いものに対して「どうして・・」という疑問がわくのです。
一番忘れてはならないのは・・・
主と私たちの常識や考え方、判断の仕方、価値観は大きく違うという点です。
例えば、私たちが一般的に「神」と考える時。神とは正しい方であり、善人には正しいと判断し、悪人には罰を与えるのが神の役割であり、そうあるべきだと思っています。
しかし、聖書の神は、今日の御言葉にあるように、
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」方なのです。
私たちの常識では、「自分の好きな人を愛し、自分の敵を憎む」のが当たり前ですが、
聖書の神は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言われます。
私達からすれば、思いもよらない発想であり、考えられない価値観なのです。
ですから、私たちの「マイナス的な事柄」は、聖書の神にとっては100%、マイナスだと言えないかもしれないのです。
私たちはエデンの園に住んでいるのではなく、罪を持っている為にこの世の中で生きています。
そしてこの世界で、罪人が罪人を生み、罪人が罪人を育てているのです。私たちの世界は、良い方向へと向くでしょうか。
私たちは自分より若い人と接すると「最近の若い子は・・」と驚く事があります。自分の年代では考えられない態度であったり考えを持っている事に驚くのです。
しかし、その年齢の差は2-3歳の学年の差でも感じたりするものです。
「最近の若い子は・・」という驚きは、昔から感じている感情です。いつからか知っていますか?
古代エジプトの時からです。 今から約5000年前です。ピラミッドの遺跡から見つかった粘土板の書簡に、「最近の若者はけしからん。俺が若い頃は…」という意味の象形文字が書いてあるそうです。
「最近の若い子は」と言う時、自分の時より良くなった時に使う言葉でしょうか? 批判的な言葉だと思います。
という事は、分かっているだけでも5000年以上前から、人間の目で見ても人間のモラルや価値観など、変化し続けているのです。
しかもその変化は良い方向ではなく、良くない方向だと言えると思います。
人間は悪い方向に一直線に突き進んでるかどうかは、分かりませんが。良くない方向へと引っ張られている様に思います。
私たちは、主の価値観から大きく離れてしまっているという認識が必要です。
「良い人に悪いことが起こるのは何故か」という疑問。
言葉を変えれば、「悪い人に良い事が起こるのは何故か」とも言えると思います。
「悪い人」とは誰でしょうか。
聖書の神は「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな共に無益な者となった。」と言われています。
悪い人とは、私の事なのです。この地球に住む全ての人の事なのです。
人間の人生には、良い事も悪い事も起きます。
私は悪人なのに・・悪いことだけでなく、良い事も起きています。
今日の御言葉通り、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」神だからです。
また、主を信じていない人も含め、私たちは自然と「悪いことだけ、神さまのせいにする」のが得意です。
自分にとって悪いことが起こると「神がいるなら、どうして・・」と、神を問い詰めるのです。
しかし良い事に対しては、神さまへの感謝は出てこないのです。
毎朝、太陽が昇ること、空気が存在する事、生きる為に雨を降らして下さっている事・・・これらは当たり前であり、気にも止まらないのです。
雨が降らなければ生きて行けないと知っていながらも、「あ~あ、今日は雨か⤵」と、自分都合で鬱陶しく思ったりもするのです。
私たちは、神さまの恵みでさえ、鬱陶しく感じてしまったりする存在なのです。
しかし、神を信じない人々も誰もが考える「神がいるならば・・」という言葉。
この言葉の背後には、「この世の中には正義の神、愛の神がいるはず」との思いが、人間の心の奥底のどこかにあるからこそ、そのような言葉が出てくるのだと思います。
つまり、人間にとってマイナス的な事がなければ、人間は完全に神の存在を忘れてしまう事になると思います。
多くのクリスチャンは、困難の中で主に出会うのです。(クリスチャンホームは違うかもしれません)
人生が自分の思い通りに進んでおり、毎日が悠々自適でHappyな時に、教会の門を叩かないと思います。
人生がどん底で、自分ではどうしようもない時に、自分が主から離れて生きていたという事に気付き、主のもとに帰る事が多くないでしょうか。
一般的には、苦しみや困難は「不幸」です。しかし聖書には「苦しみにあった事は、私にとって幸せでした(詩編119:71)」とあります。
これは多くのクリスチャンがこの御言葉を経験したのではないでしょうか。
・・・放蕩息子の父親は、どうして息子の家出を止めなかったのでしょうか。
父親は自分の息子が、財産を持って家を出ても、苦労することは分かっていたはずです。もしかすると野たれ死ぬかもしれないと想像できたはずです。
息子の自由意志に任せたのです。
息子を無理に止め「絶対に苦労するから」と話したところで、息子は大人しく納得するでしょうか。
息子は増々反発するだけです。自分で実際に苦労しないと父親のありがたみを感じる事が出来ないのです。
父親は息子のこれからの苦労を知りながら、「必ず帰って来る時がある」と信じ、待ち続けたのです。
父親は主であり、放蕩息子は私たちなのです。
主は、私たちが主から離れたら苦労があると知りながら、私たちの自由意志に任せ、私たちの帰りを待っているのです。
病気、障害、戦争、テロ、飢餓、差別、貧困、災害・・一つ一つの困難について、その理由を明らかにする事は出来ません。
分かっている事は、エデンの園では悲しみや苦しみは存在しなかった事。人間が罪を選び、主に背を向けた事により罪に支配される世界で、私たちが生きる事になったという事です。
私たちは、この世に起きる全てのマイナス的な事柄について、理解する事はできません。
しかし、それらマイナス的な事柄の要因は、私たちの罪から始まっているという事です。
聖書の神である主は、私たちに対して「究極的な計画」を持っておられます。
人間の神さまに対する不信仰の結果から生じた罪と死(永遠の滅び)から、人類を救うことです。
天の父は今日も私たちの帰りを待っておられ、私たちが父のもとに帰って来るように働かれているという事です。
私たちは、自分の悟りに頼らず、心を尽くして主に拠り頼み、どこにおいても主を信じ歩んで行く事を選択しましょう。
今日も、主の中で豊かな一日を歩んでください!