しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
Ⅱコリント12:9
パウロが、獄中にいる時に書いた手紙は「獄中書簡」と呼ばれています。
聖書には、獄中書簡が4つあります。
エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモン人への手紙
これらは、それぞれの教会に宛てて書かれたものです。大まかな内容は・・
エペソ 教会はキリストの身体
ピリピ クリスチャン生活は喜びに満ちたもの
コロサイ キリストは教会の頭である
ピレモン 信者の行動原則は愛である
この4つの手紙を読んで思った事は、パウロは一刻も早く、自分がこの獄中から脱出を望んでいるようには思えないという事です。
おかしくないですか・・?
もしも、私たちがパウロのような宣教の働きをしていたとして、獄中に入れられたらどうでしょうか。
1人でも多くの人にこの事実を知ってもらい、獄中から一刻も早く出れるように祈りをするように求めませんか?
「サタンに行く手を阻まれた!!」「悪の攻撃が・・」「伝道を阻止する働きが・・」などと考えてしまいませんか?
主に喜ばれる正しい事をしていて、その道が塞がれ、正しい事が出来なくなり、自由を奪われたら、私たちは大騒ぎすると思います。
自分の正当性を振りかざし、自分は被害者だと言わんばかりに、心が乱され騒ぎます。
パウロはどうして、大騒ぎしなかったのでしょうか。
どうして獄中にいる時に、自分の為に祈りを要求しなかったのでしょうか。
パウロは獄中にいる事を「悪の攻撃」という受け止め方ではなかったように思います。
パウロは、獄中で、「この牢獄から出たら、次は何処に宣教に行こうか・・」などと、次のプランを練っていた訳でもなかったのです。
パウロは、置かれた場所で、その時に出来る働きをしたのです。
パウロは獄中で、時には拷問を受け、痛みがある中でも、手紙を書いたのです。
牢獄の外にいるクリスチャンたちに励ましの手紙を書いたのです。
パウロは、置かれた状況に不満を言う訳でもなく、置かれた所で置かれた時間、やるべき事をしたのです。
人間の目で見たら、伝道中に獄中に入れられるというのは、「働きを阻止された」と感じます。
しかし、パウロにとっては、そのような発想さえなかったかもしれません。
パウロにとって獄中に入れられた事は、「悪の攻撃」ではなく、仮に「悪の攻撃」であったとしても、気にしていなかったのです。
原因がなににしろ、主が許されて自分が獄中にいるからです。
主が許されて、自分が獄中にいるという事実を見ると、パウロにとっては「悪の攻撃」ではなく、自分が置かれている場所は、「神の計画の一部」なのです。
沢山の伝道する地域があるなか、その中の一つとして「神の計画の一部」の獄中へ行っただけなのです。
もしも、パウロが獄中の中で、嘆き悲しみ、自分が獄中から出る事の祈りに時間を使ったとすれば、この獄中書簡は存在しなかったのです。
そんな事を考えていたら・・
パウロは、「状況に支配されない喜び」を知っているのです。
「心の在り方により、物事を見極める視点により、喜びは失われる事はない」という事を私たちに教えているのです。
主から与えられる喜びは・・・今私を取り巻く状況とは別の問題なのです。
どの様な辛い状況であっても、状況に左右されず、状況という条件は一切関係なく、喜ぶことが出来るのです。
今、私たちが置かれている状況・・・人の目で見ればつまらない所かもしれません。
しかし、主からの視点でみれば、主の計画の一部に主が私を置かれており、
感謝であり喜びを感じれる状況に・・・主が私を置いているという事です。
今日は、自分が置かれている状況に感謝しながら過ごしたいと思います。
主の中で、平安で喜びに満たされた一日をお過ごしください!!