そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。
Ⅰテモテ2:1-3
私には、いつも決まったパターンがあります。
何か自分に大きな問題が生じ、それに対して自分の心に平安が傾きかけた時、決まって起こる事があります。
すっごく久しぶりの友達から連絡があります。
「久しぶり~~! え—?何年ぶりかな~ 元気だった?」と聞くと、友達は決まってこう言います。「それがさ・・凄く悩んでる事があって電話したの・・」と。
何名かの友達は、問題が生じて行き詰った時、必ず私に連絡をくれるのです。
毎回、私が大きな問題を抱えた時に、必ず連絡が来ます。
そして、その日から2-3週間ほど、毎日電話がかかってきます。そして毎日、長電話をするのです。
10数年、ずっとこのパターン。
初めのころは、毎日の電話が凄く辛く感じました。自分の問題で心がかき乱され、泣きたい状況なのに、友達にすごく頼られるのです。そして私は、実際に泣いている友達に、実は私も今辛い最中にいると言えないのです。
その度に自分も今、誰かに頼りたいのに、頼れない事を悲しく感じたり、友達も苦しい思いを持って頼って来るので、それでなくても倒れそうな私に寄りかかって来るのです。
自分に大きな問題が生じる度に、このパターンになるのです。
自分でも寂しい思い、辛い思い、泣きたい思いで一杯なのに、どうして神さまはこのような時に決まって友達を送るんだろう・・・しかも、1回の電話で頼られるのではなく・・期間も時間も長い・・
「このパターン、イエスさま絶対にワザとだな・・」と思っていました。
ワザとだな! と思えるほど、問題が生じれば電話。問題が生じれば電話。だったのです。
どうしてこんなパターンを何度も繰り返すんだろう・・と考えた時、直ぐに分かりました。
主は、私が自分に集中して欲しくないようです。
自分の問題に心も思いも集中して、時間を過ごして欲しくないのだと思いました。
自分がどの様な状況の中にあっても、周りを見れるように、執り成しの祈りを出来るクリスチャンになるように、求められているんだな~~と感じたのです。
そう感じてからも、このパターンは続きました。
自分に大きな問題が生じた時、次の日ぐらいに、すっごく久しぶりの友達から連絡があるのです。
そして・・・先日のブログ(11/9)にも書きましたが、自分の中で心が乱される事が起きました。
「これは御心だ!」と確信をもらったと強く思い、前進しようと沢山の準備をしていたのに、急に道を閉ざされた事がありました。道を閉ざされたのは、11/4でした。
どうしてだろう・・御心だと確信があったのに・・と心がザワザワしたのです。自分の中でどうしてこのような事が起きたんだろう・・しかも、この様に確信を得たと思ったのに道を閉ざされたのが、今年で2回目・・・自分の心のザワザワを消化する時間が必要・・・そう思いつつも、
「あー明日(11/5)、誰から電話が来るんだろう・・?」と思っていました。
でも、数日待っても誰からも電話がなかったのです。
「あれ?変だな・・どうして誰も電話をしてこないんだろう・・? 今まで絶対に次の日ぐらいに誰かから電話があったのに・・」
今までこのパターンは20~30回ぐらい続いていました。
何か変・・と思いつつ、考えてみると、今年に入って大きく心がザワザワしたのが2回目。
よく考えたら1回目時も、次の日に電話はありませんでした・・
あれ? 今年にはいってから、このパターン解除されてる?とやっと気付きました。
どうして電話がなくなったんだろう??と不思議に思いました。
電話をくれる友達に冷たい態度を示し、これ以上頼らないよに!というサインを出した覚えもなく。
友達と電話の回数を重ね、友達が落ち着きを取り戻し、「いつもごめんね。辛い時ばっかり電話して・・」という友達には「大丈夫! 辛い時に思い出してもらえる友達でいれて良かったと思ってるから! 何かあった時はためらわずに電話して!」と今まで言って来ました。(←一応、本心です。)
どうして主はこのパターンを辞めたんだろう??と考えを巡らせつつ、私はコーヒーを飲もうと豆を挽いていました。
「コーヒーって不思議。豆の時も良い香りだけど、豆を挽いたら、もっと香りが良くなる」と思いました。
そう思ったら、気付いたのです!
主は、このパターンを通して、私の我欲の一部を砕かれたのです。
自分に集中し、自分の為に祈る事(←これらは悪い事ではないです)
私に生じる問題は、自分で解決できない事ばかりでした。主に委ねるしかなかったのです。それを、自分で解決しようと悩む時間を、主は与えなかったのです。
自分でなんとかしようとするのではなく、全権を主に委ねるように。どのような状況にあっても目の前の人に心を向けれるように。
コーヒー豆を砕く時って、始めの何周かは豆が大きいので少し力が要ります。しかし、ハンドルを何周か回すと少しづつ豆が砕かれ、徐々にハンドルは力を入れず回す事が出来ます。
これと同じように、私の我欲を砕かれる時、初めの頃、辛かったです。私の問題に対する辛い思い、泣きたい気持ち、これらを持ったまま、人を支えるのが苦しかったのです。
主は私の状況も心情もご存じのはずなのに、どうして主は私に、もっと寂しい思いをかぶせてくるんだろうって。二重の苦しみを感じました。
しかし、このパターンが繰り返され、回数を重ねるごとに、主からの訓練だと強く感じ、これは主が私に与えられた訓練であり、主が望まれている事・・・
コーヒー豆も挽かれ砕かれて、一層香り高くなるように、主に砕かれれば、我欲から解放され私たちの信仰もステップアップするように思います。
今年に入って2回の問題後に、電話がありませんでした。
私は密かに「もしかしてこの訓練パターン終了? この訓練に関しては、主から合格もらえた?」と思っています。
何故なら、今年に入って2回の大きな問題に対して、心が揺さぶられなかったのです。
「え~・・道を閉ざされたか・・何が自分の心の中にあったんだろう?」と自分の内面を見つめ直し、、心に引っ掛かりを覚えなかったのです。(←何か欲にまみれた考えとか)
本当に、御心だと確信を得たし、それに続く計画を祈りながら進めていたのです。でも道が閉ざされ、自分の心にも特に問題が無いように感じたのです。
「じゃ、これは私が今理解できる範疇のものではないな・・・いつか主が教えてくれるだろう・・主よ!いつか、今回の事がどういう意味なのか教えてもらえる事を感謝します!」と祈り、
2回とも問題を手放すのが早く、自分の中で無理をして主に委ねるという事を選んだわけではなかったからです。
主に砕かれるのは、楽しい時間ではないです。
心が一層痛むかもしれません。
でもその結果、痛み以上の我欲からの解放や喜びを得れるのです。信仰を揺さぶられる事が少なくなってきます。
そして何より、自分の問題に集中せず、隣人を思い一緒にその人の為に祈り支えながら、人に仕えていると、友達が問題から解放されるのと並行して、自然と自分の心も自分の問題から解放され解決されていっていました。
とりなしの祈りは、人の為でもありますが、自分の為でもあるのです。
自分の心の中に集中して(下を見て)祈るより、隣人を見て(遠く、上)祈る方が、恵まれます!
今日も、自分に与えられた隣人を思いお祈りします。
今日も主の中で豊かな一日をお過ごしください!!