わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしててはなりません。恐れてはなりません。
ヨハネ14:27
聖書にいは「平安でいなさい」「平安を与えます」など、平安でいることを勧める聖句が、沢山あります。
今、私たちは平安で過ごせているでしょうか?
私たちは、どの様な場合、平安だと感じますか?
戦争がなく、コロナのような病気がない状態・・・
後、経済的に安定していて、健康も心配いらない状態。人間関係が良好、勤め先も安定、
家庭円満、、、
確かに、この様な状態の時は、私たちは安心感に包まれ、多くの人は平安を感じると思います。
今日の御言葉は、イエスさまが十字架に架かる前の日、最後の晩餐の時に、弟子たちに話された言葉です。
最後に残された言葉が、「平安を与えます。私が与える平安と、世が与える平安は違う」と言われたのです。
主が与える平安と、世が与える平安は、どの様に違うのでしょうか?
私たちが「平安(安心)を感じる為に求めたもの」が、世が与える平安です。
世が与える平安は、富など目に見えるものが多いです。「一旦、富があれば、人生の大半の悩みから解放されるから、まず手に入れたいものは、経済力!」という会話を聞いた事があります。
しかし、世が与える平安は、状況によるものであり、一時的な平安です。
経済的安定も、家庭円満も、人間関係も、健康も、戦争も、病気も・・・
状況により、平安を感じたり、感じなかったりします。状況に左右されるのです。
一時的であり、永遠に続く平安ではないのです。
主が与える平安は、本来人間が感じる不安の根源であり、解決しないといけない根本的な問題を、主は解決してくれるのです。
私たちは、どうして経済的安定を求めるのでしょうか? 経済的問題が解決すれば、人生の殆どの悩みから解放されると考えらえる経済的問題・・ その根源には何があるのでしょうか?
お金がなくなり、住むところ食べるものが無くなるかもしれないという不安。お金が無くなったら、生きていけないから、人間は死んでしまうから、経済的安定を求めるのです。
健康も、病気も、戦争も、コロナも・・・全てにおいて平安を得たいと思う根源には、「死んでしまったらどうしよう」という不安があるからです。
人間は、何となく、善人は天国へ行き、罪ある者は地獄へ・・と考えます。
地獄へ行ったらどうしよう。「今のままでは死ねない」という不安があるのです。
「罪と死の問題」・・・ これが私たち人間が持つ、一番大きな不安根源なのです。
しかし、主は、人間がもつ最大の不安の根源にある「罪と死」を、解決して下さいました。
人間は罪を犯してしまう存在なのです。自分で罪を償う事は出来ないのです。
主は「義」なので、私たちの罪を目をつぶる事は出来ません。罪に対いては裁きしかないのです。
しかし、主は同時に私たちを愛してくださっています。
主には葛藤があるのです。「義」と「愛」という葛藤です。義であるがゆえ、罪に対しては裁くことしかできません。しかし裁く対象、私たちをとても愛してくださっているのです。
ですから、私たちを救うために、義なる神の子をこの地上に送り、十字架の贖罪により、私たちの罪の代価を支払われたのです。
十字架の救いとは、罪人を裁くという「神の義」と、罪人を許すという「神の愛」、神様だけが出来る最大の義と愛の葛藤による主の救いの方法です。
主だけが成しえる完璧な唯一の救いの道です。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16-17)
主が与える平安は、状況に左右されず、永遠に続くものなのです。
「経済的安定」が人生の大半の問題を解決するのではなく、「罪と死」の問題が、人生の問題のほぼすべてを解決してくれるのです。
今日、もう一度、救われている事に感謝しましょう。
十字架の救いは、主にしか出来ない唯一の救いの方法なのです。