良心に従って生きていませんか?【イザヤ65:2】

2022年

わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。

良心に従って日々、歩んでいませんか?

心に咎めるものがあれば、躊躇し、心に咎めるものがなければ、OKだと・・・

確かに、良心とは主が下さったものです。

しかし、よく考えて下さい、良心の基準は人さまざまです。 ある人は、ごくわずかなことにも、心に引っ掛かりを覚えたり、そうかと思えば、「良心は無いの?」と聞きたくなる位、驚く事をする人もいます。

「良心」は、主が与えたものですが、良心は神ではないのです。

良心に引っ掛かりを感じなければ、OKという判断は、ある意味危険な基準です。

私たちが住んでいるこの世の中・・・ 罪が溢れかえっている世界の中に、私たちも生まれ、今も生きているのです。

ニュースを見れば、毎日毎日、沢山の罪のニュースを目にすることができます。しかし、ニュースになる罪は「氷山の一角」であり、ニュースにならない、罪はもっと多いのです。

私たちは罪に囲まれた世界に住んでいるのです。

クリスチャンになっても、習慣や考え方が急に変わるわけではないのです。

知らず知らず、身に付けてしまった善悪の判断で生きている場合が殆どです。

「これぐらい大丈夫」「(人と比べて)罪深くない方だし」「これは流石にみんながする事」と考えてしまうのです。すると、心に引っ掛かりをもつチャンスがなくなるのです。

「主は、これぐらい許して下さる」ということは、ないです。

主は、「全き公正な方」「全き正義」を持たれています。

「これぐらい許そう」という裁量は出来ないのです。罪あるものを罪なしとは、出来ない方なのです。

小さな習慣的な罪・・・ これは身についてしまっているので、気付かず良心にも反応せず、スルーしてしまう事が殆どです。

また、自分では「小さな罪」だと思っていますが、それは自分の目で見て小さいだけで・・・主も「小さい罪」だと判断されるかは、分かりません。

今日の御言葉、

主は、罪深い私たちに、「1日中」手を差し伸べて下さっています。

これは、大きな罪の中にいる人達だけへ向けられた御言葉ではないです。私も含めての御言葉です。

今日は、自分の中に習慣的な罪の性質、考え方、判断基準などがないか、祈りを持って探ってもらいましょう!

今日も、主に一歩近づける日となりますように・・・

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