わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。
良心に従って日々、歩んでいませんか?
心に咎めるものがあれば、躊躇し、心に咎めるものがなければ、OKだと・・・
確かに、良心とは主が下さったものです。
しかし、よく考えて下さい、良心の基準は人さまざまです。 ある人は、ごくわずかなことにも、心に引っ掛かりを覚えたり、そうかと思えば、「良心は無いの?」と聞きたくなる位、驚く事をする人もいます。
「良心」は、主が与えたものですが、良心は神ではないのです。
良心に引っ掛かりを感じなければ、OKという判断は、ある意味危険な基準です。
私たちが住んでいるこの世の中・・・ 罪が溢れかえっている世界の中に、私たちも生まれ、今も生きているのです。
ニュースを見れば、毎日毎日、沢山の罪のニュースを目にすることができます。しかし、ニュースになる罪は「氷山の一角」であり、ニュースにならない、罪はもっと多いのです。
私たちは罪に囲まれた世界に住んでいるのです。
クリスチャンになっても、習慣や考え方が急に変わるわけではないのです。
知らず知らず、身に付けてしまった善悪の判断で生きている場合が殆どです。
「これぐらい大丈夫」「(人と比べて)罪深くない方だし」「これは流石にみんながする事」と考えてしまうのです。すると、心に引っ掛かりをもつチャンスがなくなるのです。
「主は、これぐらい許して下さる」ということは、ないです。
主は、「全き公正な方」「全き正義」を持たれています。
「これぐらい許そう」という裁量は出来ないのです。罪あるものを罪なしとは、出来ない方なのです。
小さな習慣的な罪・・・ これは身についてしまっているので、気付かず良心にも反応せず、スルーしてしまう事が殆どです。
また、自分では「小さな罪」だと思っていますが、それは自分の目で見て小さいだけで・・・主も「小さい罪」だと判断されるかは、分かりません。
今日の御言葉、
主は、罪深い私たちに、「1日中」手を差し伸べて下さっています。
これは、大きな罪の中にいる人達だけへ向けられた御言葉ではないです。私も含めての御言葉です。
今日は、自分の中に習慣的な罪の性質、考え方、判断基準などがないか、祈りを持って探ってもらいましょう!
今日も、主に一歩近づける日となりますように・・・