ペテロの続き ~「足を洗う」必要性~【ヨハネ13:10】

2022年

イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」

ヨハネ13:10

 

昨日のペテロに引き続き・・・

もう少し、分かち合いたいことがありました。

イエスさまは、十字架に架かる前に弟子たちと共に食事をされています。「最後の晩餐」です。

夕食の席から立ちあがり、イエスさまが弟子の足を洗われました。十字架に架かる前日です。

この、十字架に架かる前日、最後の食事の時、主は聖餐式をし、

「今、私を裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。」と十字架の死について話されました。

弟子たちは、何の話をされているのか良く分かっていませんでした。

イエスさまは、どのような思いで弟子たちを見られていたのか・・・

イエスさまは、弟子たちの足を洗われました。

当時、足を洗うという行為は、最高の謙遜を現していました。足を洗うという奴隷の役目であった行為を、イエスさまが弟子になさったのです。 弟子達を心から愛されたイエスさまの姿です。

驚いたペトロは「足など決して洗わないで欲しい」と述べました。すると今度は主イエスが、こう告げられました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」

何の関わりもないと聞いて、ペトロは慌てて、「それでは手も頭も洗って下さい」と答えています。しかし、イエスさまは、体を洗った者は全身清いのだから・・これでよいと言われます。

イエスさまを信じた者はすでに「洗礼」を受け、清くされているので全身を洗う必要はありません。しかし、足だけは洗わなければならないということです。

どうして足だけは洗わないといけないのでしょうか?

足とは、「日々の歩み」のことを指しています。

私たちは、一度受けた洗礼により、全身を洗って頂いています。 私たちは「義の衣」を着せて頂いているので、すべての罪が赦され、イエスさまと関係を持つことができました。 しかし、私たちは、日々の歩みの中で、犯してしまう罪のために、イエスさまとの親しい交わりが曇ってしまうことがあります。

この世に生きる限り、私たちの「足」は汚れるという事です。

この世で私たちは、罪を犯してしまったり、他人を傷つけることもあれば、自分が傷つくこともあります。

罪を犯さずに生きていく事は不可能だと思います。

だからその度に、主に対して自分の罪を告白し、「足を洗う」必要があるのです。

罪を犯してしまったから、「礼拝には行けない。」「教会には行けない。」、

他人に対しても「あなたは来るべきではない」と判断するのは間違えています。

この世に生きながら皆が、「自分の足」を汚してしまうのです。

ですから日々、主の前に歩み出て、罪を許してもらい清めてもらう必要があります。

主が、自らの手で私達の足を清めて、綺麗にして下さいます。

私達は、主に清めて頂いたこの足で、主の道を歩いていくのです。

 

今日も、自分の中に罪はないか、主に自分の心を探って頂きましょう。

今日も、主との素敵な交わりが持てる一日となりますように、お祈りいたします!

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