粘り強い祈り【マルコ7:24-30】

2022年

イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。

汚れた霊につかれた小さい娘がいる女が、イエスのこと聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。

この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。

するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」

しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」

女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。

マルコ7:24-30

 

イエス様は、異国の地、ガリラヤ湖北西のツロに行かれた時の話です。

この個所は、初めて読んだ時「ん?」と思う所がありました。

イエス様が隠れようとしていたこと、女性に対して「子犬」と比喩しているところ。

何故、主はそこに行かれたのか。それは休養と祈りを必要としたからだと思います。 宗教指導者の頑なさやユダヤ民衆のイエス様を政治的王とする動きがある中、伝道と論争に明け暮れていた生活から一歩、身を引いて休養し、もうすぐ起こる十字架に架かる事を目の前にし、祈りに専念する時間が必要だったと考えられます。

当時は女性を軽視する習慣があったようです。女性がいきなり男性の前に現れ話しかける事さえ、赦される事ではなかったという背景があります。

イエス様が、誰にも会わなくていい、隠れる場所を探して居られるところへ、異邦人の女性が入ってくるなり、ひれ伏し、自分の娘から悪霊を追い出すように懇願したのです。

この女性は大胆な女性ですよね。当時では許されない行動をとりながら願いを懇願したのですから。

イエス様は、ユダヤ人を「子ども」異邦人を「子犬」に例えて女性の願い事を拒否しています。

どうして人を女性を「子犬」に例えられたのか・・・

 

主は「ユダヤ人にまず救いをもたらすべきであり、ユダヤ人に与えるべき救いを外国人に与えるのは良くない」という事を言われました。 これはどういう意味でしょうか。

この言葉の真意を知る為に、目に留めたい部分があります。「まず」という言葉から始まっている事です。 つまり、救いはまずユダヤ人に与えるべきだという救いの順序、神の救いのご計画があるという意味です。

聖書は、アブラハムに対してあなたを祝福の基とするという約束が与えられ、その子孫からイスラエルの民が出ました。 神の救いはイスラエルから始まるのです。それはイスラエルが優秀だったからではなく、貧弱であったから、弱く小さくされた民であったからだと思います。イエス様も豪華な豪邸で誕生したのではなく、貧しい馬小屋で生まれることを選ばれています。神様は何より弱く小さな存在を憐れみ、最初に救われる方なのです。

この異邦人の女性は、自分を「子犬」だと例えられ、拒否されました。 しかし女性は、自分が救いを受けるに相応しくないと認めた上で、食い下がることをしませんでした。神の救いの恵みに拠り頼みました。結果、拒否されていたにも関わらず救いに与ることができたのです。

イエス様が「子犬」と言われたのは、もしかしたらこの女性の信仰を見ようとされ、ワザと言われたかもしれません。

でも結果的には、イエス様が発せられた言葉を覆すことが出来たのです。

 

この女性の姿を通して「落穂ひろい」(レビ記19:9-10)の話を思い出させます。

9 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。 10 またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

収穫後の落ち穂は主人のものではなく、貧しいものと在留異国人のものとして残されているという「落穂ひろい」の話を、この女性は知っていたかもしれません・・・

 

知っていたにしろ、知らなかったにしろ・・・尊敬すべき信仰です。愛する子どもを救いたいという一心で食い下がらないだけでなく、主の心を変えたのです。

私たちもこの異邦人の女性のように、一心に主を求める必要があると思います。

日々の祈りが、もっと粘り強い祈りであるべきだと思いました。

 

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