そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
へブル3:1
主は私たちに救いの豊かさを感じて欲しいと望まれています。
私たちがどんな状態であっても、変わらず愛していると感じて欲しい。
浴びるように愛を感じて欲しいと思っています。
私たちはどうでしょうか?
何か物事が順調に進み、気分が前向きな状態の時は、
主の導きや守り、主に愛されていると感じやすいです。
自分が主の前で適切な状態で過ごせていてると思いませんか?
一方で、
物事が何故か空回りし、思ったように事が運ばず、
また祈っても答えを得ることが出来ない日々が続くと
疑心暗鬼が芽生え、どこか自分の中に正しくない部分がないだろうか?
主の前で御心にそぐわない思いや考えが自分の中にあるのではないか?と
間違いを正そうと自分の中を探ります。
この行動はどうでしょうか?
正しくもあり、間違いでもあると思います。
常に自分の心を探り、主の御心を知ろうとする。間違えた部分を正そうとする・・・
良い事だと思います。
しかし、もっと良い行動は、
自分で自分を裁くことにエネルギーを使わないことです。
そのエネルギーは主への賛美に使うべきです。
私たちの生活が順調に進むも進まないも、それは私の主観であり、
気分が前向きになるのも落ち込むのも、自分の勝手な思いです。
主は私たちがどんな状態であっても、私たちの魂を愛してくださっています。
物事がうまく進まないのに、気分が上がる人はいません。
でも、それは自分の主観だと思い直してください。
主の目には、私の状態が本当に「物事がうまく進まない状態」かどうか・・・
私の目と主の目は違います。
聖書には「私たちの人生に苦難はある」と書いてあります。(ヨハネ16:33)
私たち人間は「生まれる時」があり「死ぬ時」があります。
同じ様に生きていれば「苦難な時」もあるのです。
大事なのは、自分の目に、良い時も悪い時も、主を仰ぎ見るということです。
自分で自分を裁くのをやめましょう。
私たちの目は、自分の思いや考えというフィルターを通して物事を映してしまいます。
主が下さった私の目が、物事を正しく見ることが出来ますように。
主の御心通りに見ることが出来ますように。