シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。
イザヤ61:3
イザヤ書には「外套(がいとう)」という言葉が出てくる。 外套とは上に羽織るもの。
今日は外套について黙想してみたい。
イザヤ書にでてくる「外套」は対象的である。
復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおう(イザヤ59:17)
救いの衣を着せ、正義の外套をまとう(イザヤ61:10)
復讐という服を着て、その上にねたみの外套を羽織っている
救いという服を着て、正義の外套を羽織っている。
復讐やねたみというものは本当に根深いものだとわかる。
癒しを経験し、ねたみから解放され、ねたみの外套をやっとの思いで脱ぐことが出来ても
中に復讐という服を着ている・・・
聖書の言う「衣」「外套」は、自分を支配しているもの。
自分の重心。自分をコントロールしているもの。
また他者から見ての第一印象ともなるし、自分を外部から守るものである。
反対に、救いという服を着て、正義で身を固める・・・
神様の救いを深く体験したうえでの正しく生きる。人生の根本に「主の救い」がある。
私たちはどんな外套を着ているだろか。外套の下の服はどうだろうか。
救いと正義で身を固めれているだろうか。
私は「賛美の外套」で身まとい、キリストの香りを放つ者となりたい。