自分と主との距離間【第2コリント4:18】

2021年

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

第2コリント4:18

 

私たちは問題が生じたり苦しくなったり、何か大きな決断をしないといけない時、

主を思い出し、主の前にひざまずく・・・

特に問題がなく、何となく平和な日々が続くと、主を忘れがちになる。

万事、事が上手くいく日々が続くと、主を忘れてしまい、主の前に行くことをしなくなる。

自分の状況により、自分と主の距離が変わってしまう。

主はどうだろう?

主も、私たちとの距離を日々変えられてるだろうか?

ある時は近くにいて気にかけて下さり、ある時は、私を忘れるのだろうか?

 

主はどんな時でも私に気をかけて下さっている。

私が、主を意識してもしていなくても。

記憶に残らない平坦な日々を過ごしていた瞬間瞬間も、主は私に注目されている。

 

私たちは、日々何に注目して時間を過ごしているだろうか。

目の前にある出来事に注目していないだろうか。

今日、どの服を着ようか、お昼に何を食べようか、帰り道に本屋に行こうか、それとも明日にする?

こんな小さな日常的に起こる日々の選択は山ほどある。

誰に相談することもなく、習慣的に全体のバランスを考えて選択している。

今日は少し寒いからスカートではなくパンツにしよう。

今日は気分的にパスタかな。

明日の方が時間に余裕があるから、明日本屋に行こう。

 

もしも、主を知らない人が「イエスキリストはどういう人ですか?」と質問されたら、

私はどのように答えるだろう。

自分が経験した主の姿を伝えるだろう。

自分が経験した主の姿、、それは言葉が途切れないほど沢山あるだろうか?

「え?イエス様?・・・えーと・・私たちの救い主だよ・・」と

と突然の質問に、決まり文句のような答えだけしか出てこないかもしれない。

 

「イエスキリストがどういうお方か」という質問に、山ほどの答えを出せるようになりたい。

この質問に対してどれほどの答えが出るかが、今の自分と主との距離間となる。

 

目の前にある出来事に注目せず、自分の心の焦点を広げよう。

常に、自分の心に主の居場所をつくれば、平坦な日々も満足感と安心感で包まれる。

今までは気付かなかった小さな出来事の中に、主を感じれるようになる。

目に見える目先のことばかりに焦点をあてずに、

見えない主の存在に目を向けよう。

見えるものは過ぎ去るものであり、見えない主は永遠のものである。

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