ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。使徒9:3-5
聖書を読んでいて…
主を信じる者を迫害していたサウロ(のちのパウロ)に
主は、どうしてこんなに優しい声をかけるんだろうか?と思いました。
もし、私が当時の時代に生きていて
迫害されている側で、家族がサウロに拷問されたりしてたら…
絶対に許せない…
「主よ。どうしてサウロをそのままにされるのですか??」
「主よ。。御覧になられていないのですか?」
「早く、主の裁きを下して下さい‼」と
泣いて祈ると思います。
だって、絶対にサウロが間違えているから。
サウロの迫害は、ステパノの殉教直後から始まったと思います。
そこからサウロは迫害をさらに広げようと、
大祭司から許可を得てダマスコに向かいました。
正確な時間は分かりませんが、
サウロの迫害期間は、数ヶ月~1…2年位ではないか?
と何かで読んだことがあります。
サウロが迫害した理由は、
彼なりの「信仰への誠実さ」と「誤解」です。
サウロは生まれつきユダヤ人で、
しかもローマ市民権を持つ特別な立場の人。
律法に非常に忠実で「神に仕えること」に命をかけていたのです。
サウロの時代、ユダヤ人は「神は唯一であり、
人が神になることは絶対にありえない」と信じていました。
だから、ナザレのイエスさまを「神の子」「メシア(救い主)」だと信じる者たちは、
サウロの目には「神を冒涜し、律法を壊す異端者」に見えたのです。
彼にとってそれは「神への反逆」…
「異端者を取り締まること=神への忠誠」だと信じていました。
そしてダマスコで、急に天からの光がサウロを巡り照らした時
サウロは「主よ。あなたはどなたですか」と聞いています。
サウロは「主よ」と言ってるのを見ると
何かを感じたんだと思います。
あなたは誤解している…
あなたの忠誠心は、違う方向に向いている…
主は、その様な思いで語られたのではないか…?
でも、迫害された人にとってはどうだろう?
間違い、勘違いでは済まされない…!
絶対に許せない!
主の介入が遅くないか??
と、私は思います。
…そんな事を考えながら数日過ごしていました。
そして、PTAの用事の為、学校に向かっている道中。
「あ…そうだ!」と思い出した事がありました。
私は、半年以上前から心療内科に通っていて
お医者さんに
「適応障害です。出来るだけ学校に行かないように。
鬱の一歩手前です。
このまま頑張り過ぎたら、鬱になるのは確実」
「どうしても学校に行かないといけない時は
自分の心を守るために絶対に服用して下さい」と言われていた薬があるのです。
それを飲もうとカバンから薬を出したのですが、
今までに見たことが無い位、
凄く小さな薬。
しかも1錠だけを服用すれば良いのです。
私はその小さな薬を見ながら
「私の動悸や不安感や手の震えは、こんな小さな薬でコントロールできるんだ…」
と思ったのです。
この小さな小さな薬は、人が作ったもの。
人が作ったこんなに小さなもので
私の心をコントロールできるのか…
だったら、主はどうなんだろう?
人でもこんな小さなもので私を変えれるのであれば、
主は、私の心も身体を癒すのも、もっと簡単なはず。
本当にお心一つで癒して貰えるはず。
でも、祈っても、癒されていません。
私の目に、学校側の理不尽な対応は続きます。
主はどうして、介入して下さらないんだろう…?
私は自分が間違っているとは思っていないのです…。
私に間違いがあるのであれば、
主がそれを正して下さればいいし、
相手側に間違いがあるならば、一刻も早く介入して欲しい…。
しかし、私の目には、主は放置されているのです。
サウルに迫害を受けた人々は、どれほど主の介入を望んだだろう…。
彼らも自分たちの信仰が間違ったものではなく
100%、サウルに非があると考えたはず。
やっと、主が介入してくれたと思ったら、
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と言われ…
介入が優しすぎる…💦
何なら雷を落としてくれても良さそうなのに、
光を照らされただけ…。
…どうしてだろう…
私たちの目に、極悪非道な人だと思っても、
100%相手が悪いと思ったとしても
主は、その人を愛されている…。
主はサウロを愛されていたんだと思います。
サウロの「行い」は確かに間違っていました。
しかし、主はそのサウロの「行い」よりも
「心の奥にある誠実さ」をご覧になられていたのだと思います。
「神のために生きたい」という熱い思いを、
主は注目され、
私たちの目には留まらない
サウロの誠実な思いをご覧になった…のではないか…。
主は、間違っている人を一瞬で裁くこともできたはずです。
でも主は、サウロを裁かず「光」で包まれました。
その光は、ただ罰を与えるためではなく、
「見えなかった目を開かせるため」の光だったのかも…
サウロは主に出会い、
初めて「霊の目」が開かれたのです。
彼は、自分が信じていた正しさを失い、
本当の主に出会ったのです。
そんな事を考えていると、
主の「介入」は、決して私の望む形とは限らない。
雷のように裁くことでも、強制的に止めることでもなく、
主は、光で包み、言葉をかけ、少しずつ心を変えていかれる方…。
だから、私が「主よ、なぜ何もされないのですか?」と叫ぶ時、
主はもしかしたら、
私の中に絶対に存在するであろう
「誤解したサウロの部分」…
これを見ておられるのかもしれません。
自分の正しさを握りしめて離さない私…。
相手の非を見つめながら、
自分の心の中にある「誤解している部分」や
「まだ知らない事実に目を閉ざしている部分」を見落としているかもしれません…。
主は、そんな私の“見えていない部分”にも光を当て、
私の中の「サウロ」を「パウロ」へと
変えようとされているのではないか…?
その光は、裁きではなく、癒しと導きの光。
そして、その光に照らされる時、
私の中の誤解や頑なさが少しずつ溶かされ、
主の真実と愛が見えてくるのだと思います。
「あなたにも、私の光が必要なんだよ…」
主がそう語りかけておられるように感じました。
私は、小さな薬を見ながら、
たった一粒で、心の波を鎮めるように、
主のひと言が、私の心を変えることもできるはず。
祈り方を変えよう…‼
「主よ、どうか私の中のサウロを照らしてください。」
「あなたの光で、私の誤解と頑なさを溶かしてください。」
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)