弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」ヨハネ6:8-9
最近、12弟子の中の「アンデレ」に会ってみたい!と思っています。
どうしてそう思い始めたかというと…
5つのパンと2匹の魚の話を読んでいる時にそう思ったのです。
この話は、四つの福音書に全て記録されています。
四つを読み比べて見ると、
主が弟子に向かって「あなた方で、何か食べるものをあげなさい」と言われています。
しかし、ヨハネの福音書のみ
主は「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
と、ピリポを試して言われたと記録されています。
最終的に、アンデレが子どものお昼ご飯である
5つのパンと2匹の魚を主に差し出したのです。
ヨハネの福音書のみが、ピリポとアンデレという名前を記録しているのです。
主は、ピリポに意図をもって尋ねたのに、
用いられたのはアンデレの行動だった…
どうして、主は最初からアンデレに聞かずにピリポに聞いたんだろう…
これはどういう意味だろう?と思ったのです。
ピリポって、ベツサイダ出身(ヨハネ1:44)です。
この奇跡が起こった場所も、ベツサイダの近く(ルカ9:10)。
つまり、ピリポはこの辺に土地勘があったのです。
また、主の問いかけに対して
すぐにこのような返事をしています。
「一人ひとりが少しずつ食べるにも、二百デナリのパンでは足りません。」
合理的で、現実的。
きっと責任感も強いタイプだったのかもしれません。
一方、アンデレは…
聖書の中ではあまり多くは語られない弟子…
アンデレは、ヨハネの福音書1章で
最初にイエスに出会った弟子の一人。
アンデレは主に出会った事を、直ぐに兄弟シモンに伝え
シモンをイエスさまのもとに連れて行きました。
アンデレは、大切な人にもその喜びを伝えたい
自分だけの信仰で満足しない人…。
静かな性格だったようですが、
でも確実に人をイエスのもとへ導く人と言えると思います。
ヨハネ12章では、
祭りの時にギリシア人たちがイエスに会いたいと願い、
アンデレとピリポのもとに来ます。
アンデレは、その願いをイエスに伝えました(ヨハネ12:20-22)。
当時、異邦人(ユダヤ人以外)に対して閉鎖的な雰囲気があったはず。
それでもアンデレは、国や立場の違いを越えて人を受け入れる心を持っていたのです。
また、彼はヨハネの弟子でしたが、
ヨハネが「見よ、神の小羊だ」(ヨハネ1:36)と言ったのを聞いて、
すぐにイエスについて行き、
その日をイエスと一緒に過ごした。と記録されています。
アンデレは、自分の先生(バプテスマのヨハネ)に執着せず、
真理を見た瞬間にすぐに心が動く素直さを持っていたのです。
(これはヨハネの願いでもありました)
そして、アンデレについて記録されているのが
今日の御言葉の箇所。5つのパンと2匹の魚です。
男性だけで5000人。
女性と子どもを入れれば、優に1万人は超えるはず。
1万を超える人たちの食料の準備をするように言われたのだから
私なら常識的に、業者の様な人を探してしまいそうです。
アンデレは群衆の中から、一人の少年の小さな弁当を見つけ、
「ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っている子どもがいます。」
と、イエスさまに差し出しながら
すぐにこうも付け加えます。
「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょうが……」
アンデレは空気が読めない人だったのではなく
常識的な状況を理解できる人。
それでも、差し出してみようと思えた!というのが素晴らしい!
この話を通して…
常識的で現実的な思考を持ったピリポは、
「信仰の余白」がなかった言えるかもしれません。
私も問題が生じると
『できる/できない』『こうあるべき』で
即断したくなります。
主の働きが介在する余地を残さないのです💦
疑問や不安は持ちながらも、
同時に「もしかしたら主は別のやり方をされるかもしれない…」と
いう「信仰の余白」…
心にスペースを持たせる必要がある…💦
主は、私たちに完璧なものを求めておられない…
むしろ、
「これしかないんです…」「これでは不十分です…」
と思うものを通して働かれる主。
大切なのは、
どれだけ立派なものを持っているかではなく、
どれだけ無力な自分を素直に差し出せるか…。
アンデレのように、小さな恵みに気づき、
それを主に委ねる信仰を持ちたい――
アンデレのように
「信仰の余白」を持てるような弟子になりたい…
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)
