日常に隠れている主の恵み【哀歌3:22-24】

2025年

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

哀歌3:22-24

今朝、夜勤明けでクタクタでした。

やっとの思いで仕事を終え、病院を後にし、

電車に乗り、やっと座れる瞬間!

驚きました…

顔をあげると電車の窓から朝日が見えたのです。

雲の切れ間からこぼれる光が、

世界を柔らかく照らし出し、

とても清々しく神秘的に感じたのです。

その一瞬、心の中にこんな思いが湧きました。

「主の恵みは豊かに… 今日も変わらず注がれている…」

この朝焼けは、昨日も、一昨日も同じように、

誰にとっても平等に空に広がっていたのに、

なぜ今日だけこんなに神秘的に美しく

主の恵みが豊かに今日も注がれていると感じたのだろう?

きっとそれは、私の心が謙遜になっていたからだと思います。

昨夜も病院で色々な事がありました。

そして私は、亡くなっていく人々を見ながら、

人間の弱さを痛感したのです。

疲れと共に、自然と心が低くされていたからこそ、

主の恵みに敏感になっていたように思います。

電車に揺られながら、「主の恵みってなんだろう」と考えていました。

主の恵みは、特別な時にだけ与えられるのではなく、

実はいつも、誰にでも、平等に降り注いでいるもの。

問題は、それを「受け取る心」を持っているかどうかではないか…?

たとえば、病気や困難の只中にある時、

人は自然と神に助けを求め、自分の弱さや小ささを認めます。

そういう時、神の慰めや人の親切、

ほんの小さな励ましにも、私たちは深く心を動かされるのです。

それは、心が「謙遜」という姿勢を取っているからではないでしょうか。

つまり、謙遜な心こそが、

「恵みを受け取る器」なのではないか…?

私は、自分の人生の全ての瞬間を困難の中で過ごす訳ではなく、

いつも、心が弱く低くいる訳でもありません。

だからこそ、

「意志をもって謙遜になること」こそが、大切なのではないかと。

謙遜とは、困難に強いられ仕方なく低くなるだけでなく、

自ら進んで「主に信頼し、自分の小ささを認めること」

 

謙遜であれば、見えるもの、聞こえる声、起こる出来事、

すべてが「恵み」に変わるかもしれない…!

私たちは日々、忙しさに追われて過ごしています。

でもその中で、心を落ち着かせ、静かに祈ろう…

「主よ、今日もあなたの恵みを受け取れる謙遜な心をください」

日常に隠れている主の恵みに

今日も気付けることが出来ますように…!

主の恵みを見つける視点があれば、

人生のどんな季節も「恵みの時」になるような気がする…。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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