今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔を顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知らされているのと同じように、私も完全に知ることになります。
Ⅰコリント13:12
私たちが信じる「主」
どのようなイメージを持っていますか?
私たちは、それぞれの心の中に「主」のイメージを持っていると思います。
力強く奇跡を起こす救世主、
優しく慈悲深い癒し主、
厳格で正義を貫く裁き主…。
長年の信仰生活や聖書の学びを通して、
私たちなりに、主イエス・キリストの御姿を
思い描いていると思います。
しかし、ふとした瞬間に、
あるいは聖書のある箇所を深く読んだ時、
私たちがこれまで信じてきた「主」と、
聖書の中に描かれているイエス像との間に、
どこか「違和感」「戸惑い」「理解との隔たり」を
感じることがあるかもしれません。
あれ…? 何か思っていた方と違う?って。
それは同然だと思います。
イエスさまが生きている時代の人たちにも
そのような「思い違い」があったのです。
イエス・キリストが十字架にかかるために
エルサレムへと向かう旅路において、
弟子たちは、これまで共に過ごしてきたはずのイエスさまに対して、
言いようのない違和感や戸惑いを覚えたのです。
それは、彼らが期待していた救世主の姿と、
目の前にいるイエスの言動があまりにもかけ離れていたから…。
当時の人々は、ローマ帝国からの解放、
輝かしい王国の樹立を夢見ていました。
しかし、イエスさまが語るのは、
苦難の道、十字架の死、そして自己犠牲の愛でした。
彼らは、力あるメシアを求めていましたが、
イエスさまは自らの命を捨てることを示唆されたのです。
弟子たちが感じたこの「期待外れ感」は、
イエスさまが変わってしまったからではなく…
それは、イエスの本質そのものが、
彼らの抱いていた先入観や期待とは異なっていたからです。
当時の人たちも、現代を生きる私たちも
心に凄く願う事があります。
とても苦しい状況から抜け出したいのです。
そこからの脱出に全ての希望を置いてしまうのです。
苦しい状況からすぐに救い出してくれる「救いの主」
自分の価値観や正義感に賛同し、
敵を打ち倒してくれる「力強い主」
自分の過ちを優しく受け止め、
常に慰めてくれる「癒し主」
私たちは無意識であっても、
自分に都合の良い主を望んでしまっている所があると思います。
もちろん、これらの要素も
イエスさまの御性質の一部かもしれません。
しかし、もし私たちが、
自分の都合の良いように切り取った
イエスさま像だけを信じているのだとしたら、
聖書の中に示されている、より深く、
多面的な主の御姿を見誤ってしまう可能性が大いにあります…。
まず覚えておかないといけないのは、
私たちはイエスキリストというお方の
1%さえ理解出来ていないという事…。
私たちが、私たちの頭で、
主のはかりごとを理解する事は出来ないのです。
もし、聖書を読んで「意外さ」「予想外」「違和感」などを感じたら
チャンスです。
自分が知らなかった主を知る事が出来るから。
立ち止まり、考える良いチャンス。
自分の願望や先入観が、主の御姿を歪めているかもしれません。
自分が聖書を通して違和感を感じたら
それは主の本当の姿を知れるチャンス。。
つまり主との距離を縮めるチャンス。
主をもっと知っていく為にも
主ともっと距離を縮める為にも、
もっと聖書を読もう…。賛美を捧げよう。
今日も主と共に過ごそう…‼
主よ、私の思い込みを砕いてください。
あなたの本当の御姿を、御言葉を通して深く知ることができますように。
たとえそれが私の期待や理解から外れていても、
真実のあなたを慕い求める心を与えてください‼
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)