信仰は「決断」だと思います【ルカ24:28-35】

2025年

28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
29 それで、彼らが、「いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

ルカ24:28-35

今朝、私は寝坊…必然的に次男も寝坊。

次男は最寄りの駅まで自転車で。

私はその後を追うように歩いて自転車を取りに行きました。

最近、このパターンが多く、

私はこの自転車回収の行き帰り、

賛美を聞きながらの祈りの時間。

私の心を回復させる、豊かな時間となっています。

ですので、自転車を回収して帰りは自転車を押しながら

この時間を過ごしているのです。

今朝、回収する為に駅に向かって歩いていました。

私の前方に、2人の若い男性が肩を並べ歩いていました。

そこへ横道から誰かが加わり、3人が話しながら歩いていたのです。

私は凄く驚きました。

まるで「エマオ村」へ向かい歩いていた

弟子たちとイエスさまみたい…。と思ったのです。

急いで立ち止まり、ルカ24章を読みました。

復活の主と出会った二人の弟子。

彼らは、イエスさまの十字架を見届けた後、

失望と混乱の中でエマオという村に向かって歩いていました。

心は暗く、足取りは重い。

ルカ24:21には

「私たちはこの方こそイスラエルを解放してくださる方だと望みをかけていました。」

と記録されています。

希望が見えず「こんなはずじゃなかった…」と

呟きたくなる、そんな道のりだったのです。

エマオは、彼らの故郷だったという説もありますが、

何にしろ、彼らはエルサレムを離れたのです。

「希望から離れる」

「信仰の場所から離れる」

という選択をしたのです。

そんな絶望的な2人にイエスさまは寄り添い、

御言葉を解き明かしながら、

彼らと語り合い、歩みを共にされたのです。

ようやく食事の時、

イエスさまがパンを裂いた瞬間に目が開かれ、

「主だったのか!」と悟るのです。

この2人はイエスさまの弟子であると記録されています。

(12弟子には含まれない弟子は大勢いました)

パンを裂いた瞬間…

どうしてパンを裂いた瞬間だったんだろう…?

この2人は

共に食事をする機会は多かったと思います。

イエスさまが、パンを取って祝福し、裂いて渡された仕草を通して

主を思い出したかもしれません。

また、パンを裂くことは、

イエスさまの十字架の死を象徴しています。

エマオの弟子たちは、

イエスさまのパンを裂く姿と共に、

十字架と復活の意味が心の中でつながり、

ようやく“ああ、主だ!”と悟ったのではないか…?

今まで、共に歩いておられたのは、主だった…!

そうだ!主だったんだ!

私たちの心は燃えているじゃないか!

そう気付いたエオマの弟子は、

急いでエルサレムに戻るのです。

もう日は暮れており、

イエスさまに「もう泊った方が良い」と

勧めていた時間帯。

エルサレムからエマオまで10~12キロだそうです。

しかし、彼らは「主だ!」と悟った瞬間、

エルサレムに戻ったのです。

もう一度、信仰を選んだのです。

もう一度、希望を持ったのです。

逃げ道から、使命の道へ。

絶望から、希望の道へ。

自分達のこれからの人生、歩む道を方向転換したのです。

私たちの信仰生活も同じ…。

何度も、もうダメだと思える日々を過ごすことがあります。

逃げたくなるような瞬間が多くあります。

主はおられないのではないか?と感じる時があるのです。

私たちはこの様な時、

エマオの弟子たちのように、思い出さないといけない…。

主が共に居て下さった日々。

御言葉から慰められ、勇気づけられた事。

賛美を通しこの世では味わったことがない喜びに包まれた瞬間。

私たちは絶望に襲われた時、

思い出さないといけないのです。

主が共に居て下さった時間を。その経験を。

そして、エマオの弟子たちのように

直ぐに方向転換しないといけないのです!

主は居られないのではないか?という疑心から

違う!主は確かに私と共に居られた!

私は主を信じる‼と決断するのです。

直ぐに!

信仰はダラダラしていてはダメだと思います。

何故なら、私たちは悪や罪、良くない考えなどに

負けてしまう弱い存在だからです。

私は、信仰は決断だと思います。

私は、直ぐにだらけたり、怠けたり、

悪に負けたり、腹を立てたり…

立派なキリスト者とは言えません。

ずっと普遍的に信仰を持ち続ける事は難しいのです。

ずっと主に満たされた信仰生活を送る事ができない。

だから、決断なのです。

私は今日も、主を信じます‼という告白。

主を信じるという決断をするのです。

私に出来るのは決断だけなのです。

後は主がして下さるのです。

私は、今日も主を信じよう…!

エマオの弟子たちのように、

今日も、今ある場所から方向転換をして

信仰に向かって歩こう!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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