知恵を得よ、知恵を得よ。何を得るにもまして、知恵を得よ
箴言4:7
たとえ、山を動かすほどの信仰があっても、愛がなければ、無に等しい。
Ⅰコリント13:2
久しぶりな方から連絡が来ました。
韓国の教会で仕えていた時の先輩です。
信仰も物言いもしっかりしておられる方。
久しぶりに話をして、
昔、韓国で住んでいた記憶が一気に鮮明に蘇りました。
この伝道師先生と話す時、
私の背筋はシャッキっとし、
そして言葉のミスがないように緊張感を持って話すのです。
当時、韓国語がそれほど上手くなかった私は、
圧倒されていました。
でも多分それは、私の語学の問題というより、
周りの同僚も同じだったと思います。
私はいつも「どうしてもう少し、ソフトな話し方が出来ないんだろう…」と思っていたのです。
その記憶が蘇りました。
私たちは、大切なことを誰かに伝えたい時、
つい熱が入りすぎてしまうことがあります。
特にそれが「信仰」に関わることならなおさらかもしれません。
自分の信じているものが真実であり、
相手にもその素晴らしさを知ってほしいと願うあまり、
時にその熱意が相手を圧倒し、
距離を生んでしまう…
そんな経験を私もした事があります。
堅い信念や強い決意、大きな経験、自分が得た悟りの様なものは
時に攻撃的、排他的、あるいは暴力的だと
相手に受け止められてしまう可能性があると思います。
確かに、正しさを主張すると力が入り、声も大きくなる…
聞く側は心を閉ざしてしまうかもしれません…。
主を伝えたいという純粋な思いが、
私の思いとは裏腹に、福音の門を閉ざしてしまうこともあるように思います。
自分の思いとは真逆の結果になる事があります。
一本の久しぶりの電話を通して、
色々な事を考えさせられました。
自分がこの先輩から感じた圧迫感や緊張感。
また自分の思いが熱くなりすぎて、引かれた経験。
何だろう…と思ったのです。
主はどうだったんだろう…。
イエスさまは、圧倒的な力で世界を支配しよとしなかった…。
力のない幼子として、底辺の身分である飼い葉おけで誕生され…
そして最終的には最も罪人が処刑される十字架刑で…。
力や権力を振り回した人生ではなかった…。
平和のロバに乗られるお方。
そう思った時に、今日の御言葉を思い出しました。
聖書には何度も「知恵」を求めるように書かれています。
また「愛」の重要性も語られています。
強い信仰だけでなく、知恵と愛も必要。
知恵と愛が人を動かす力となるのかも…。
知恵とは、単なる知識ではなく、
「どう伝えるか」「どう生きるか」に関わる力。
相手の背景や気持ちを理解し、その心に寄り添うこと。
それが知恵であり、愛なのだと思います。
言葉ではなく、生き方そのもので語る信仰は、
強い説得力を持つはず。
光となり、塩となって生きるとは、
まさに「知恵」と「愛」を持ち合わせた生き方。
確かに、ケニアに行かれた宣教師先生から聞いた事があります。
ある部族に福音を伝えようと、
一生懸命、福音をつたえたそうです。
しかし、部族の人々は心を一向に開こうとせず、閉ざしたまま。
どちらかと言えば、宣教師先生と部族の間には
溝が出来た関係だったそうです。
そこで、宣教師先生は悔い改め、改めたそうです。
部族の言葉を学び、彼らの文化に心を寄せ、
生活を共にしながら信頼を築いたそうです。
ある時、子どもが大きな怪我をした時、
宣教師先生が懸命に手当てし助けたそうです。
その姿に心を打たれた部族は福音を受け入れ始めたそうです。
「正しさ」を押し付ける力よりも、
「愛をもって寄り添う知恵」の方が、
人の心に届くという事が分かります。
私たちが信じる信仰を誰かに伝える時、
力強い言葉や情熱はもちろん大切。
しかし、それ以上に大切なのは「知恵」と「愛」をもって語ること。
力ではなく、知恵と愛をもって。
情熱だけでなく、謙虚さと忍耐をもって。
言葉だけでなく、行動と生き方を通して。
そうして生きる私たちの姿が、
何よりも雄弁に福音を語るのかも…と思いました。
あなた:
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)