目の前の「豊かさ」を求めてしまう…【出エジプト33:15】

2025年

それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。

出エジプト33:15

私たちは日々の生活の中で、

様々な「豊かさ」を追い求めています。

昇進であったり、高い給料、広い家、カッコイイ車、

最新の電化製品、安定した人間関係…。

これらは、私たちにとって魅力的で、

手に入れたいと願うものばかり…。

人がそのような物を所有するのを見ると

増々、自分も手に入れたい…!と思うのです。

このような私たちの目に魅力的なもの。

要注意です…

もし、自分が欲しかった物が手に入ったら、

「わー!主よ感謝します!」と手にしてしまいます。

これは本当に良い選択なんだろうか…?と

思います。

「私が望むもの」と手に入れるという事は、

いとも簡単に「祝福」と思ってしまうからです。

私たちの目に見えるものが全てではない…。

私は欲しいものが沢山あります。

だから気を付けないと…!

自分の目の前に、自分の手に届く所に

願っているものがあっても、

まず手に取らないように気を付けています。

聖書の中にもモーセを通して主は語られています。

出エジプト33章には、

イスラエルの民がエジプトを出て荒野を旅する中で、

衝撃的な出来事が描かれています。

主は、乳と蜜の流れる豊かな「約束の地」へ

民を導くと約束されたのです。

民はどれ程喜んだ事でしょうか。

長年の苦役から解放され、

自分達が目指す地は、希望に満ちた豊かな土地だと知り、

心が躍ったと思います。

しかし、主は、そこにはご自身は同行しない、と告げられたのです。

豊かな約束の地…そこに主はいない。と言われたのです。

一方で、主が共に居て下さる場所は、

過酷な荒野。飢えも渇きもある、

先の見えない旅が続く場所。

つまり、モーセは、この二つの選択を迫られたのです。

  1. 主がいない豊かさ(約束の地)
  2. 主がいる困難(荒野)

もし私たちだったら… どう判断するでしょうか?

多くの人は、目の前の「豊かさ」を選んでしまうかもしれません。

「この先の見えない荒野での生活から脱出できるなら

主がいなくても…、豊かな生活ができるなら…

それでも良いのでは…?」と。

しかし、モーセはそう考えなかったのです。

彼は、主がいなければ、どんなに豊かな地であっても

意味がないと考えたのです。

彼は神様に訴えかけます。

「もし、あなたが私たちと共に行かないのであれば、

この地から私たちを導き出さないでください。」

そしてさらに、

「どうかあなたの栄光を私に示してください」とまで願ったのです。

モーセにとって最も重要だったのは、

主の臨在そのものでした。

モーセは、主なしの豊かさは、彼には何の意味も持たなかったのです。

私たちは聖書を読み、

主が共に居て下さるという事が大切!

だと頭では分かっています。

分かっていながらも、その反面

「あーーこの問題さえ解決すれば…どれ程幸せだろう…」

「これさえ、手に入れれば、どれ程幸せだろう…」

「この学校に入学できれば…人生成功できるのに…」

「この会社に入れれば、人生安泰だろうに…」

私たちは、しばしば

「〇〇があれば幸せになれる」という幻想を抱きがち…。

しかし、モーセは、

本当に大切なのは「何を手に入れるか」ではなく、

「誰と共に歩むか」、

あるいは「何を心の中心に据えるか」であることを教えてくれます。

このモーセの選択は、現代を生きる私たちにも深く響きます。

私たちは時々、この様な話を聞きます。

有名な芸能人がこの世を自ら去る選択しいたりするニュースを耳にします。

私たちからみれば、

成功し、経済的問題から解放され、

地位も名誉もある。

しかし、それらを手にしても心の空洞の問題は

別問題なんだ…と感じたことがあると思います。

しかし…

それでも私たちは、一旦、豊かさを選ぼうとするのです。

心の空洞は目に見えない。

心の空洞問題はあるかもしれない

しかし、まずは豊かさを手にしたいのです。

豊かさを手に入れてから、次の問題は次で良い…と

考えてしまうのです。

それほど、目に見える「豊かさ」には

私たちの心を奪う力があるのです。

真の充足は、

私たちが何を「持つか」ではなく、

誰と共に歩み、何を心のよりどころとするか…

にかかっているのです。

主ご自身こそが、私たちの心を満たす、

究極の「豊かさ」であると聖書は語っています。

私たちも、このモーセの視点から、

自身の人生を振り返ってみる必要があると思います…。

主がいない「豊かな地」と主がいる「荒野」

私たちは目に見えるものに負けやすいのです。

だから、目の前に自分が望むものが転がってきたら、

「わー主の祝福!」と飛びつかず、

手を出す前に

祈る必要があるのです。

「これは主からのものでしょうか?」

「私が手にして良いのでしょうか?」

一度、手にすると、その手を離すのはもっと難しくなるからです。

主よ。今日も主を選択する一日となりますように…

毎朝、祈って一日をスタートしよう…。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

タイトルとURLをコピーしました