主に感動と感謝が出来ない理由【詩篇103:2】

2025年

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

詩篇103:2

パートで行っている病院。

夜勤の多くの日は、嵐のような日々。

しかし、時々驚く程、ナースコールが鳴らなく

静かな夜もあります。

先日、2-3時間、凄く静かな時間を過ごしたのです。

その時に新婚さんのナースさんが

「この前ねー、残業して家に帰ったら、

夫が夕飯を作ってくれてたんですよ‼」と

話し始めました。

私が「へ~! 良いですね~! ご主人、料理されるんですか?」

A「全然! した事がない人なんですよ! クックパッド見ながら作ったそうです」

私「え~ 凄いですね! 愛されてますね! 美味しかったですか?」

A「確かに美味しいかどうかは、別にして、なんか感動しました!」

という会話をしました。

私は、ご主人が不慣れな事に努力してくれている姿に

感動しているAさん。

その姿が微笑ましく思いました。

そしてAさんが最後に照れ隠しなのか

「これっていつまで続くと思います?」と言ったのです。

夫はいつまで自分の為に努力をしてくれるだろうか?

私はいつまで、夫に感動できるだろうか?

という意味です。

その言葉を聞いて、ちょっとクスっと笑えました。

確かに…いつまで続くんだろう…(笑)

多分、Aさんのお母さんは、

Aさんが生まれて結婚までの間、毎日ご飯を作ってくれてるはずです。

でも母親が毎日ご飯を作ってくれることに、

私たちは毎日、感動できるでしょうか。

どちらかと言えば

毎日、食事を作って貰っておきながらも

不平不満を口にする事が多いのでは…?

「えー今日もまたカレー?」

「なんかもっと違うものを食べたい」

「コレ、美味しくない…」

なんて言ったりします。

感動だけでなく、感謝もない…💦

家のご飯は、母親が作るのが「当たり前」なのです。

「当たり前」な事には

「感動」も「感謝」も忘れてしまうのです。

そして「当たり前」な事に対しては、

「不平不満」を持ってしまう…。

…信仰も似ていると思いました。

主に出会った時、

私の為に十字架で死なれた事。罪赦されたこと。

主の愛に感動したはずです。

凄く満たされたはずです。

もしかしたら「主さえいて下されば手…もう何も必要ない…」と

思ったかもしれません。

しかし、時間が経つにつれ、

主の十字架の死は、特別なもの…とは違い

「主に感動」より主に「 何故ですか?」

と言うような不平不満。

この世に「当たり前」も「偶然」もないのです。

自分の状態を見つめ直そう…。

いつも、主に感動と感謝の心を持って歩みたい…‼

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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