わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇103:2
パートで行っている病院。
夜勤の多くの日は、嵐のような日々。
しかし、時々驚く程、ナースコールが鳴らなく
静かな夜もあります。
先日、2-3時間、凄く静かな時間を過ごしたのです。
その時に新婚さんのナースさんが
「この前ねー、残業して家に帰ったら、
夫が夕飯を作ってくれてたんですよ‼」と
話し始めました。
私が「へ~! 良いですね~! ご主人、料理されるんですか?」
A「全然! した事がない人なんですよ! クックパッド見ながら作ったそうです」
私「え~ 凄いですね! 愛されてますね! 美味しかったですか?」
A「確かに美味しいかどうかは、別にして、なんか感動しました!」
という会話をしました。
私は、ご主人が不慣れな事に努力してくれている姿に
感動しているAさん。
その姿が微笑ましく思いました。
そしてAさんが最後に照れ隠しなのか
「これっていつまで続くと思います?」と言ったのです。
夫はいつまで自分の為に努力をしてくれるだろうか?
私はいつまで、夫に感動できるだろうか?
という意味です。
その言葉を聞いて、ちょっとクスっと笑えました。
確かに…いつまで続くんだろう…(笑)
多分、Aさんのお母さんは、
Aさんが生まれて結婚までの間、毎日ご飯を作ってくれてるはずです。
でも母親が毎日ご飯を作ってくれることに、
私たちは毎日、感動できるでしょうか。
どちらかと言えば
毎日、食事を作って貰っておきながらも
不平不満を口にする事が多いのでは…?
「えー今日もまたカレー?」
「なんかもっと違うものを食べたい」
「コレ、美味しくない…」
なんて言ったりします。
感動だけでなく、感謝もない…💦
家のご飯は、母親が作るのが「当たり前」なのです。
「当たり前」な事には
「感動」も「感謝」も忘れてしまうのです。
そして「当たり前」な事に対しては、
「不平不満」を持ってしまう…。
…信仰も似ていると思いました。
主に出会った時、
私の為に十字架で死なれた事。罪赦されたこと。
主の愛に感動したはずです。
凄く満たされたはずです。
もしかしたら「主さえいて下されば手…もう何も必要ない…」と
思ったかもしれません。
しかし、時間が経つにつれ、
主の十字架の死は、特別なもの…とは違い
「主に感動」より主に「 何故ですか?」
と言うような不平不満。
この世に「当たり前」も「偶然」もないのです。
自分の状態を見つめ直そう…。
いつも、主に感動と感謝の心を持って歩みたい…‼
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)