主は探されています【エゼキエル22:30】

2025年

「わたしは彼らの地を滅ぼさないように、その地のために城壁を築き、その破れ口に立って、わたしの前にとりなす者をひとりでも探したが、見つからなかった。」

エゼキエル 22:30

「主が働かれる全ての瞬間には祈りがある」

とある説教者が言われているのを聞いて、

私の心深くにその言葉が浸透していくような感覚を受けました。

聖書の中に「祈った」という明確に記録がなくとも、

主の御業の背景には、

私たちは自分の限界を認め、

主に拠り頼む祈り、誰かを想っての祈り…

隠れた祈りが必ずあると思うからです。

エステル記4章以降には、表面的には祈りの記録がありません。

しかし、民の命を懸けた断食、命がけの決断、

王の前に立つその瞬間の震える心…

そのすべての瞬間に「主に拠り頼む祈り」が存在していると思います。

祈りは時間を決め、主との時間を過ごすように祈るものもあれば、

ネヘミヤのように、

ペルシャ王の前で願いを述べる直前、

心の中で短く祈る姿も記録されています。

行動や言葉の前に、心を主に注ぎ…祈る姿勢と言うものもあるのです。

主は、どちらの祈りも聞かれています。

小さな声の祈りも、大きく大胆な祈りの声も。

主は、私たちがどの様に祈るかを見られているのではなく、

祈り求めているか、自分の限界を認め、

主に拠り頼むという心の上渇きがあるか…

をご覧になられているんだと思います。

今日の御言葉を見ると

主は、祈る者を探されておられるのです。

破れ口に立って、私の前にとりなす者を

1人でも探したが、見つからなかった。とあります。

主は、祈る者を探されている…。

この御言葉は「裁きを下すしかない」とする

主の厳しい決断の直前に語られたもの。

とりなしの祈りをする者を探されたのは…

そこには「滅ぼしたくない」という

主の深い愛と願いを感じます。

「滅ぼさないように……探したが、見つからなかった。」

これは主の裁きが一方的に下されたというより、

主がとりなし手を探し続け、

誰かが立ち上がるのを待ち続けたというこという意味だと思います。

私たちは、時折、何度も「どうにもできない」と

感じる状況に出会います。

目に見える問題、心に抱える痛み、

そして愛する人のために何かしたくても何もできない無力さ。

そんな時、私たちにできることは… 祈ることです。

それは ‟消極的な選択” ではなく、

主に拠り頼む最も力強い行動

主が探されていたのは、

特別な力や能力を持った人ではなく、

「破れ口に立ってとりなす者」――ただ祈る人なのです。

祈りは目立ちません。

人に評価されることも、成果がすぐ見えることもないと思います。

けれど、祈りこそが、主が切に望まれている姿なのです。

主が働かれるすべての瞬間には、

誰かの涙、誰かの沈黙、誰かの祈りを求めておられるのです。

主の願う人になりたい…‼

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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