他の宗教ってどうなの?【イザヤ53:4-5】

2025年

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

イザヤ53:4-5

学校の保護者の人に

「キリスト教ってさ、信じるだけで救われるの?」と聞かれました。

私「そうだよ。キリスト教は信じるだけで罪赦され、救われる。

神という存在と私たち人間って隔たりがあるよね。

多くの宗教は、善行や悟りを要求して、

神の方が “ここまで来なさい(上って来なさい)” と言われてる。

でもキリスト教は、神の方から人間の世界に降りて来られ、

人間の生きる苦しみや悲しみを理解され、

神が人間の罪と苦しみを代わりに背負ってくれたんだよ」と答えました。

その日の夜、

人間の罪と苦しみを代わりに背負ってくれる神・宗教は

本当に他にないんだろうか…?と思ったのです。

そしてChatGPTに聞いてみました。

  • キリスト教 (Christianity)
    キリスト教は、イエスキリストが人間の罪を代わりに背負い、十字架で贖い成し遂げた。人は自らの努力では救われず、神の恵みによってのみ救いを受ける事が出来る。神が代わりに苦しみを背負う存在。

  • 仏教 (Buddhism)
    仏教は、信仰のみで救われるという概念はない。仏教では、苦しみ(dukkha)は「カルマ(業)」の結果とされ、個人が修行(戒律を守る、瞑想する、善行を積む)を通して乗り越えなければなりません。仏陀(ブッダ)は人間の苦しみを理解し、それを乗り越える方法(八正道)を教えますが、代わりに苦しみを背負う存在ではありません。

  • イスラム教 (Islam)
    イスラム教では、アッラー(神)は慈悲深く、信者を導きますが、「人間の罪や苦しみを代わりに背負う」という概念はありません。むしろ、人間は自らの行いによって神の前で責任を負う存在です。救いに入る為には「善行(行い)」も求められる。全ての行いはアッラーによって裁かれる。

  • ヒンドゥー教 (Hinduism)
    ヒンドゥー教においても、カルマの法則によって個々人がその結果を負います。ただし、クリシュナ神が「バガヴァッド・ギーター」の中で、信仰を持つ者を助けると述べる箇所はあります。しかし、キリスト教のように「人間の罪や苦しみを代わりに担う」という明確な概念はありません。信仰だけでなく、カルマ(業)やヨーガ(修行)、バクティ(神への献身)などが重要視される。

このような世界で大きく割合を占めている宗教で

自分の努力や、自分の生き方による結果など

自分から神に近付かないといけないのです。

宗教はよく、山登りに例えられます。

山の頂上への道のりは色々なコースがある。

選ぶ道によっては、険しい道であったり、穏やかな道であったり、

だが、結局は同じ頂上に辿り着くんだ。

だから、どれであれ宗教を一生懸命信じれば

ゴールは同じ…。という考え方。

これは、神が頂上にいるのです。

頂上から、下界にいる私たちに「努力で登って来い」と言っているのです。

しかし、私たちが信じるキリストは、

頂上に留まっておられる方ではなく

山の麓に降りて来られたのです。

そして、私たちが進む道を示されたのです。

ですから、他の宗教とは全く違うのです。

他の宗教では「神が人間を助ける」「導く」という教えはあっても、

「私たちの人生の重荷を代わりに背負う」と明確に言った神は、

キリスト教におけるイエス・キリストだけなのです。

あなた:

主に感謝。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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