まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。イザヤ53:4-5
学校の保護者の人に
「キリスト教ってさ、信じるだけで救われるの?」と聞かれました。
私「そうだよ。キリスト教は信じるだけで罪赦され、救われる。
神という存在と私たち人間って隔たりがあるよね。
多くの宗教は、善行や悟りを要求して、
神の方が “ここまで来なさい(上って来なさい)” と言われてる。
でもキリスト教は、神の方から人間の世界に降りて来られ、
人間の生きる苦しみや悲しみを理解され、
神が人間の罪と苦しみを代わりに背負ってくれたんだよ」と答えました。
その日の夜、
人間の罪と苦しみを代わりに背負ってくれる神・宗教は
本当に他にないんだろうか…?と思ったのです。
そしてChatGPTに聞いてみました。
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キリスト教 (Christianity)
キリスト教は、イエスキリストが人間の罪を代わりに背負い、十字架で贖い成し遂げた。人は自らの努力では救われず、神の恵みによってのみ救いを受ける事が出来る。神が代わりに苦しみを背負う存在。
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仏教 (Buddhism)
仏教は、信仰のみで救われるという概念はない。仏教では、苦しみ(dukkha)は「カルマ(業)」の結果とされ、個人が修行(戒律を守る、瞑想する、善行を積む)を通して乗り越えなければなりません。仏陀(ブッダ)は人間の苦しみを理解し、それを乗り越える方法(八正道)を教えますが、代わりに苦しみを背負う存在ではありません。 -
イスラム教 (Islam)
イスラム教では、アッラー(神)は慈悲深く、信者を導きますが、「人間の罪や苦しみを代わりに背負う」という概念はありません。むしろ、人間は自らの行いによって神の前で責任を負う存在です。救いに入る為には「善行(行い)」も求められる。全ての行いはアッラーによって裁かれる。
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ヒンドゥー教 (Hinduism)
ヒンドゥー教においても、カルマの法則によって個々人がその結果を負います。ただし、クリシュナ神が「バガヴァッド・ギーター」の中で、信仰を持つ者を助けると述べる箇所はあります。しかし、キリスト教のように「人間の罪や苦しみを代わりに担う」という明確な概念はありません。信仰だけでなく、カルマ(業)やヨーガ(修行)、バクティ(神への献身)などが重要視される。
このような世界で大きく割合を占めている宗教で
自分の努力や、自分の生き方による結果など
自分から神に近付かないといけないのです。
宗教はよく、山登りに例えられます。
山の頂上への道のりは色々なコースがある。
選ぶ道によっては、険しい道であったり、穏やかな道であったり、
だが、結局は同じ頂上に辿り着くんだ。
だから、どれであれ宗教を一生懸命信じれば
ゴールは同じ…。という考え方。
これは、神が頂上にいるのです。
頂上から、下界にいる私たちに「努力で登って来い」と言っているのです。
しかし、私たちが信じるキリストは、
頂上に留まっておられる方ではなく
山の麓に降りて来られたのです。
そして、私たちが進む道を示されたのです。
ですから、他の宗教とは全く違うのです。
他の宗教では「神が人間を助ける」「導く」という教えはあっても、
あなた:
主に感謝。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)