また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いた、言った。「ああ、肉が食べたい。
エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎ、にんにくも。
だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」民数記11:4-6
昨日、ブログで
「すっごく感謝な事があっても、
残念だという思いが1つでも生じると…主の恵みは簡単になくなる」
という事を書きました。
小さな不満は、大きな恵みさえかき消す力があるのです。
これを一日、黙想していました。
そして思い出したのは、
出エジプトをしていたイスラエルの民。
主は、その日その日に必要な食べ物、マナを与えらえた。
しかし、民は「肉が食べたい!」と不満をこぼしました。
そしてその不満は大きくなり、
魚、きゅうり、すいか、にら、たまねぎ、にんにくと
次から次へと思い出したのです。
そして私たちの喉は干からびた…
自分達には「何もなくて、このマナを見るだけだ」と言ったのです。
日々のマナを与えられながらも、
自分達には何もない…と言ったのです。
小さな不満が爆発し、
マナという日々の恵み、日々の奇跡は、忘れてしまっているのです。
イスラエルの民が、
肉を食べたいというのは、ダメな事なのでしょうか。
マナだけで日々、感謝をし、
他のものを求めるのは、
「欲」だったのでしょうか?
主は、結局、イスラエルの民に肉(うずら)を与えています。
主は、私たち人間が、
肉を食べたい…肉が欲しい…
と思う感情、衝動を理解される方です。
そう思ったら、
イスラエルの民は、
日々マナを下さる主に、感謝をささげ、
謙遜な思いで肉を求めれば良かったのではないか?と思いました。
主は「私たちの弱さに同情出来ない方ではない」と御言葉にあります。(へブル4:15)
私たちは、貪欲で、なかなか満足しない…
いつも不足だと思ってしまう。
そしてその不足だと感じる事を、悲劇のようさえ思ってしまうのです。
私たちは…まず、与えられてるものに感謝。
私たちは、祈って与えられたものより。
祈らずに与えられたものの方が遥かに多い…
今、着ている服も、私は祈った訳ではない。
家の中にある殆どのものが、
祈らずして与えられたもの。
…感謝が不足しているにも拘らず…
自分には何もない…と思ってしまう。
小さな不満は、大きな恵みをかき消すのです。
民が肉を欲しいと思った事が間違いなのではなく、
マナに感謝を捧げ、
その上で肉を求めるべきだったんだと思います。
主に感謝する事を、もっと探そう…
私は欲が強いから…
直ぐに不足だと思ってしまうから。
多分、沢山の感謝を忘れて生きているんだと思います。
主に感謝することを、もっと探そう。
毎日、主への感謝を口ずさむクリスチャンとなりたい…‼
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)