それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。ルカ24:31-34
次男が私に時々こんな事を言います。
「あなたはイエスさまのファンですか? それとも弟子ですか?」
多分、教会の中高生の礼拝で聞いたんだと思います。
今日、聖書を読みました。
イエスさまが十字架で亡くなったが、
マリアたちがイエスさまは蘇ったという話を聞いたにも関わらず、
2人の弟子はエルサレムを離れ、故郷へと向かって行きました。
その道中、イエスさまの十字架と復活についての話をしていたのです。
そこへ、イエスさまが声をかけられました。
道中を共にしたのです。
そして2人は目的のエオマという村の近くまで来て
宿泊をしたのです。
イエスさまに「そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾いたから」と
一緒に泊まる事を勧めました。
そして一緒に食事をしている時に、
2人は、イエスさまだと気付くと、イエスさまの姿が見えなくなったのです。
すると、ふたりはすぐさま立って、
エルサレムに戻ったのです。
そして弟子たちに、事の次第を話したのです。
「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と。
エルサレムからエマオ村まで、11キロほど。
そして彼らは殆どエマオ村の近くまで行っていたのです。
目的地までもうすぐという所で、
先を急いで帰るのではなく、近くの村に留まったのです。
そこで2人は目の前に居られる方が、
イエスさまだと分かったのです。
彼らは、すぐさま立ち上がり、エルサレムに戻ったのです。
道に電灯などがない時代。
真っ暗だったと思います。
もうすぐ日が暮れるからと、先を急ぐイエスさまを
無理やり一緒に宿泊するようにと勧めていた2人。
エマオ村の近くまでいたのですから、
10キロ近くの道のりを戻ったのです。
道々、2人はイエスさまのことを
「神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者」だと言っていました。
しかし、イエスさまだと分かった時、
彼らこそ、イエスさまのファンから、
イエスさまの弟子となった瞬間ではないか…と思いました。
イエスさまとの道中での話で
彼らの心は燃やされていたのです。
主に触れられたのです。
次の日の朝早く、エルサレムへと戻った。のではなく、
真っ暗の中、戻ったのです。
尊敬する方が、生き返ったという噂を耳にしながらも
2人は、主を失くした失望が勝っていたのです。
自分の目で、主が亡くなった姿を見たからだと思います。
そして常識ではあり得ない、起こりえない噂を
確かめることなく、帰路に向かったのです。
どうして、田舎に帰る前に確かめなかったんだろう…
多分、自分の常識を基準としたから。
あり得ないという常識が邪魔をしたんだと思います。
例え、失望の中に置かれたとしても
自分の常識を基準としない…
また、主に触れられたら、
即、行動するという事。
明日から主に仕えるのではなく、その瞬間に決断し主に仕える。
漁をしていたペテロとアンデレも、
イエスさまに「私について来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう」と言われた時、
網を捨てて、直ぐに主に従いました。
即、主を選ぶという事が大切…。
今日も、主を選ぼう!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)