この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」
マタイ13:15
昨日、学校の保護者と会う約束をしていました。
電車に乗り市内にでました。
そこで久しぶりにキリスト教の伝道車を見ました。
スピーカーで聖書の御言葉を流し通り過ぎていきました。
あ…久しぶりに見た…と思い
心の中で祈りました。
「これを見た人、聞いた人が、イエスさまの元に帰るきっかけとなりますように。
また奉仕をして下さっている方々を喜びで満たし祝福して下さい」
そして辺りを見渡すと、人通りが多いのですが、
この伝道車を気にかけたり、
立ち止まって見ている人はいない感じ…
私も、クリスチャンになる前はこの車を気にした事なかったかも…
と思いつつ、保護者たちと待ち合わせの場所へ。
打ち合わせをする為にカフェへ移動したのですが、
沢山の人々が行き交う中を歩きました。
そこで私たちの少し前を歩いていた人が
荷物をガサガサと触りながら歩いていました。
その為、少し人が行き交う足取りが、
その人の行動により少しペースが崩されている様に感じました。
「沢山の荷物を持ってるのに、歩きながら物を探したら…
物を失くしそう…」と思い、
少し気になっていました。
すると案の定、小銭を落としたようで、
チャリーンとお金が落ちる音がなりました。
すると、私たちの前の人も、反対側から歩いてくる人も、
多くの人が、小銭が落ちたであろう場所に視線を動かしていました。
もちろん、私も皆と同様、視線は床に動いていました。
自分の姿と、先を急いでいるであろう沢山の人たちの姿にクスっと笑えました。
伝道車の方が、小銭が落ちた音より、
遥かに大きい音です。
しかし、伝道車の音には反応せず、
小銭が落ちた小さい音には多くの人が反応をしたのです。
多分、今日「伝道車見たよね?」と言われても
見たかどうか記憶にないように思います。
しかし「今日、あの人通りの多い場所で小銭を落とす人見た?」と聞かれたら
あ、見た見た!と記憶に残っていると思います。
私たちは、見たいものだけ見て。
聞きたいものだけ聞いている。
これを無意識にしているのです。
無意識に私たちは自分にとって関心がある事に反応し、
関心がない事、利益とならない事。面倒な事など
自然とシャットダウンしてしまう機能があるようです。
そんな事を考えていたら、
聖書の御言葉も、礼拝のメッセージも、
自分の耳に居心地が良いもの。
自分の心が休まるもの。
自分を励まし癒してくれるもの。
このようなものに心を開き、耳を傾け
「私を癒し優しい神さま」を信じているじゃないか?
裁きの部分や、警告の部分、終末の部分は
見たくない、聞きたくないという思いが働いてしまい
シャットダウンしてしまっているんじゃないだろうか。
韓国の教会の牧師先生が
「信徒が喜ぶメッセージをしないと教会は人が集まらない」と言ってるのを
聞いた事があります。
誰だって、厳しい言葉より優しい言葉が好き。
でもいつまでも、そのような信仰ではダメだな…と思いました。
成長していく神の子でありたい…・
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)